本藩領の職人役は、水役といって、代官が差配した。大工・木挽(こびき)・鍛冶などを使って、架橋・唐樋の修繕などを行い、「水役」を超える部分は、手間賃を払っていたことは前述した。徳山藩でも、職人役を水役という。「御蔵本日記」によると、「元禄七年分水役」銀三四一匁六分を町大工棟梁庄三郎が取り立てた(元禄八年(一六九五)七月五日条)、「御領内大工元禄九年分水役銀取立」を町棟梁庄三郎が行い、取立銀は四六五匁、大工数三二人(半水役も含む)であった(元禄十年七月十一日条)。また「宝永四年分家大工水役銀取立」は銀四二六匁、大工二七人(うち五人は半水役)であり、そのうち棟梁役屋敷として二五匁、同心付銀として一五匁六分を引いて、三八五匁四分となった(宝永六年(一七〇九)四月十八日条)とある。この三つの記事は、徳山藩領の家大工がその職人役としての水役を銀納し(なかには半水役の負担のものもいた)、町大工棟梁(この町は徳山を指し、庄三郎は徳山住と考えられる)を通じて藩に掌握されていたことを示している。他の職人も、棟梁・頭を通じて掌握され、水役を負担していたのであろう。一七〇二年(元禄十五)一月には、参勤用の取り繕いのため、下松から「町船大工」五人、福川から同二人、徳山から一人を遠石の船蔵へ呼び寄せており、彼らの大工道具を継送りにするよう各目代に命じている。下松の船大工は、たびたび船蔵へ呼ばれている。