一七〇六年(宝永三)十月十七日に、町奉行から当職へつぎのような伺が出された。下松市「表向」(「本通り筋」とも称する表町)には「井川」(用水路)が二カ所しかなく、水が不如意であり、冬の火用心のためよろしくない。そこで「切レ戸川流を町之後寄洲御座候間、自力ヲ以掘り流し、冬向用水自由之様ニ仕度(つかまつりたき)通」、町人たちが願い出たが、どうはからったらよいかというのである。当職の決裁は、本川土手の痛みにならず、別に差支えもないなら、願の通りに許可する、というものであった。この記事でまず、「切レ戸川」と表現されていることが注意をひく。切戸川は、かつては「きれとがわ」と呼ばれていたのである。「地下上申絵図」をみると、中河原町から中市への橋を渡った左手に水路が描かれており、周慶寺裏手あたりまで伸びている。あるいは右の時期に掘られた水路かもしれない。一六九〇年(元禄三)三月二十五日に下松東市の大火で一一三軒焼失、同年十一月六日下松浦町で六四軒焼失と、大火を経験しているから、防火は死活問題であった。
地下上申絵図、下松市の橋と川(山口県文書館蔵)
一七〇六年(宝永六)には、大水で切戸川の橋が落ちてしまい、十月の藩主の周慶寺参詣を前にして、下松町年寄・目代が、自力で船による仮橋をかけて馳走したという記事がある。切戸川にかかる下松市の橋は、ずっと板による仮橋だったが、一七六七年(明和四)八月、石橋に懸け替えられた(徳山毛利家文庫「大令録」)。
下松市の中河原町(徳山領)と下松西市(本藩領末武下村)との間は、玉鶴川が流れ、板橋がかかっていた。一六九〇年(元禄三)の懸け替え記事によると、切組は藩の作事方で行い、浜崎漁船で串浜へ積み廻し、栗屋から玉鶴川の現場までは下松の漁船で運んでいる。橋懸けのときの人足は、下松市から二〇人、近所の村から二〇人徴発され、町大工が平野からも呼ばれている。