「御蔵本日記」によく登場する下松町人は、小嶋家と磯部家である。一七〇一年(元禄十四)十二月の記事によると、小嶋惣兵衛の家督を嫡子助之允がついたが、助之允が死去し、その子惣二郎が幼少(五歳)なため、助之允の弟惣介が家督をつぎ(惣兵衛を名乗る)、惣二郎をその養子としたい旨の願い出があり、藩から許可がおりた。助之允は、前述したように開作を行い(第三章、4)、また、七〇〇石積の大廻船を所持し、北国米や徳山藩米を大坂に運送して、運賃米を得ていた(元禄十年十月一日条)。惣介は、家督をつぐ前から下松町年寄を勤めていた(元禄十四年(一七〇一)九月五日条)。
磯部家は早くから有力町人で、磯部吉右衛門は徳山藩へ「暫借」銀二〇貫匁を貸している。藩ではそのうち一〇貫匁の返済に米を二石一斗和市(わし)(銀一〇〇匁に付二石一斗の相場)であてたい旨を与四介(好助・好介とも記されており、吉右衛門の嫡子と考えられる)に打診した記事がある(元禄三年一月十九日条)。与四介は、この和市に不満だったのか、一月分の利子を払ってくれるよう提案し、藩側は半月分の利銀を払うことにした。同年十二月二十日にも、奈古・大井替米(奈古・大井の年貢米を萩町人に渡し、後にまた米で請け取り、時期による米相場の差益を得る仕組と考えられる)のうち、一三〇石余を吉右衛門への返弁銀の引当てにしている。好介は、一七〇三年(元禄十六)に宮洲開作を築き立てており、六年(宝永三)四月九日条に、「磯部開作塩運上銀」四三匁とあるので、これは塩田とみられる。「地下上申絵図」の宮洲のところに、広大な塩浜が塩屋とともに描かれ、その西に磯部家と弁才天も記されている。一七〇九年(宝永六)十月、藩主元次が宮洲開作を訪れ、塩屋の前に腰掛を用意して、「塩屋之躰(てい)、塩かま塩焼之躰、男女数十人是又対(つい)之衣類仕業入二御覧一」れている。元次は開作を満足に思ったのか、好介の下松町の居屋敷を「永代御除」(年貢免除)とし、開作物成一カ年分も免除している。藩では当用銀や須万・五カ村紙仕入銀が不足したさいなどに、有力町人から「町借」をして凌いでおり、そういった意味でも彼らは重要な存在であった。
地下上申絵図、豊井村(山口県文書館蔵)