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市日と祭市

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 一六八九年(元禄三)三月二十六日条(「御蔵本日記」、以下同じ)に、町奉行から当職への伺がある。花岡庄屋(本藩領)から下松目代へ書状をよこし、花岡では一日・十日・二十三日と月三度市立をすることにしたので、ぜひ下松の人々に来るようすすめてほしいとのことである。徳山市が二日と十一日なので、日が接近して「さし相」う。また先年徳山市日を定めたさい、花岡の者たちを徳山市に来させないように申し付けたとも聞いているので、どうしたらよろしいか。当職の決裁は、行きたいと思う者は行けばよいが、行くようにと申し付けるには及ばない、というものであった。一七〇二年(元禄十五)十月二十四日条によると、下松町の市は従来四日・十二日・二十四日であったが、どうもかんばしくない。そこで、以後は当分四日・十四日・二十四日に中市だけで市立をし、十一月四日には「ゑびす祭」を催したいという。この願い出は、許可されている。これらの記事からみると、月に三度の市立というのが一般的なようであり、賑いのために祭りと組み合わせて、芝居・操(あやつり)芝居なども行った。
 一六九五年(元禄八)七月十六日条によると、下松西市(本藩領)で祭市が行われ、十九日には芝居なども興行される。そこで徳山藩では、藩領の下松町に火の用心を命じ、祭市へ家臣等が行くことを禁じている。一七〇九年(宝永六)九月二日条では、遠石の祭市が行われ、天気もよく近年にない賑いをみせた。売買の銀高は一六四貫五三〇匁、大芝居銀六貫二一八匁三分、小芝居銀二貫五四八匁八分で、都合一七三貫二九七匁一分であった。
 右のような祭市や妙見社の祭礼には、藩から押えの者(警備)を派遣した。因みに、妙見祭礼には、藩主の代参を派遣し、祭礼米一石三斗二升六合、神楽銭銀五匁を出している(徳山毛利家文庫「両人衆手紙留」貞享二年九月十二日・十六日条)。妙見社祭礼では、流鏑馬(やぶさめ)も行われた(「御蔵本日記」宝永六年九月二日条)。