本藩では、秀就(ひでなり)-綱広(つなひろ)(一六五一年家督)-吉就(よしなり)(一六八二年家督)-吉広(よしひろ)(一六九四年家督)-吉元(よしもと)(一七〇七年家督)と藩主が継がれており、吉元は長府毛利家から入って本藩主となった。徳山藩では、就隆(なりたか)-元賢(もとかた)(一六七九年家督)-元次(もとつぐ)(一六九〇年家督)と継がれ、元次の在位と本藩主吉就・吉広・吉元の在位が重なるわけである。吉就・吉広の参勤・暇(いとま)のさいには、将軍からの上使が本藩江戸上(かみ)屋敷(桜田邸)に来るのを元次も出合って取り持ったり、御礼の登城に同道したり、また普段の付合も形のごとく行われている(毛利家文庫「記録所日帳書抜徳山之部」)。ところが吉元によると、
飛驒(元次)儀、対二本家一段々疎略仕、私家督以後参勤并御暇之上使七八度有レ之候内、一度ならてハ不二罷越一、彼者方江罷越候ても相対も不レ仕、重畳無礼之儀、其上常々行跡不レ宜旁(かたがた)付、飛驒隠居百次郎(元堯)家続被二仰付一被レ下候様と相願候、云々、
と、自分の代になって七、八度もあった参勤・暇の上使のさいに一回しか出合わず、元次の屋敷へ出向いても対面もせず、かさねがさね無礼であると憤っている(毛利家文庫「毛利飛驒守様一件」)。自らが支藩から入った藩主であるゆえに侮られているのではないかという思いが加わり、この憤りは激しく、やがて将軍への訴訟につながっていく。
第二章でみた本・支藩関係の要点は、その後も基本的には変わっていない。本藩は、その宗主権を軽んずるおそれのある支藩の行為には神経質で、とりわけそれにつながりやすい将軍を介した関係の変化は、小さな事にも注意を怠っていない。将軍の命令、法等の伝達は、本藩を経由して支藩へというあり方に固執していた(毛利家文庫「徳山㕝上御用所記録書抜」)。一方、徳山藩の方では、できれば将軍から直接に命をうけようとし、本藩を経由する場合も、少しでも介入を受けないよう細心の注意を払っていた。一例だけあげておくと、生類憐みの書付(幕令)が、本藩家老中から徳山藩当職・加判役に届けられた。使者は、そのまま岩国藩へも届けに行くので、帰りに返事(御請、つまり承知して領内へ触れる旨)をいただきたいと言って去った。そこで徳山藩では支藩の長府藩へ照会の飛脚を出し、長府では四、五日以前に領内に触れたこと、触の内容は、徳山に届けられたものと同じであることなどを確認したうえで、返事をしている(「御蔵本日記」元禄二年(一六八九)七月二十四日二十五日条)。いかにも細心の注意ではないか。