一七一六年(享保元)四月十一日の本藩主吉元の将軍家継への訴状(毛利家文庫「徳山事記」)によると、事件は前年の一五年六月六日におこった。西久米村(本藩領)の百姓喜兵衛とその嫡子惣右衛門・次男三之允の三人が田の草取りに出て、墓の尾山というところに喜兵衛が植えておいた小松を一本切った(田の畦修補のためという)。それを徳山藩山廻り(藩有林の監視人)の足軽二人が見咎めた。山廻りは徳山領の山の木を切ったと判断し、百姓側は本藩領の山に自分で植えて置いた木を切るのにどこが悪いかと反論し、刃傷事件に発展して、喜兵衛・三之允の百姓父子が切られて死んだ。徳山藩では、領内の万役(まんやく)山で松を切ったと主張し、本藩ではそこは本藩領の墓の尾山であり、徳山山廻りの非を認めて誅伐(斬罪)せよと主張し、決着がつかず、結局翌年本藩主が将軍へ訴えたわけである。訴えの理由は、つぎのようであり、事件そのものよりも、そこに表われた元次の対本藩関係のありようであった。
本家江対シ礼を相忘、非理ニ募リ、常々之勤も疎略ニ仕、其上不行跡ニ而仕置不正候付、家来百姓式迄落着不レ申候、旁(かたがた)以(もって)此通ニ而は私国中之仕置難レ立候間、飛驒守隠居被二仰付一、在所罷居実嫡子百次郎十五歳罷成候間、家相続被二仰付一被レ下候様ニと奉レ願候、
ここにあげられている理由は、前掲の憤りの内容と同じで、「常々之勤も疎略ニ仕」というのも、参勤・暇の上使のさいなどに出合わないことを指すのであろう。そうしてみると、事件はあくまで一つの契機にすぎず、この訴えは本支藩関係のあつれきが積り積っておこったものといえる。しかし、吉元の訴えの理由について、四年後に幕府側は、「民部大輔(吉元)申立候品々も、為レ差(さしたる)儀(ぎ)ニも無レ之候」(「毛利飛驒守様一件」)と言い、大した理由と思っていなかったことが分かる。