矢は放たれた。吉元は、将軍への訴訟の道を選び、元次の隠居、嫡子元堯の家督を希望した。二日後の将軍家継の決定は、元次を最上新庄藩戸沢正庸に召し預け、嫡子百次郎(元堯)は吉元に預けおいて、「領地其方江還附され候」(毛利家文庫「徳山御還附之記」)というものであった。この処分によって徳山毛利家は断絶(これを改易(かいえき)という)した。この決定を吉元は、「案外之被二仰出一(おおせいだされ)、近年以御気之毒被二思召一候」(「毛利飛驒守様一件」)とうけとっている。しかし、これは「案外」のことであろうか。第二章でふれたように、本藩は、何度か将軍への訴訟を考えたことがあった。本・支の関係を従来通り(領知朱印を本藩主が一括受け取り、支藩への内証分知し、幕令などは本藩経由で伝達するあり方)とするか、それとももっと強く本藩の下知に従わせる(普請役などを本藩の指示どおり勤めさせる)ために将軍に訴訟するか、そのどちらかを選択する機会があったのである。そのさい、本藩の取次老中であった松平信綱が、従来通りにしておいた方がよいと思うが、もし訴訟するのであれば、下としてその結果を予測することはできない(つまり将軍の威光がそこで示される)ので、その覚悟が大事だ、と忠告した。訴訟には冒険が伴い、願い通りにいくとは限らない、というこの構図を本藩は知悉していたはずである。結果は、吉元の意図を超えて実現してしまったのである。
決定のあった一七一六年(享保元)四月十三日に、吉元は徳山家臣団に対して、もともと本藩から付け置いたお前たちであるから、憤りはなく「流牢」しないよう処置するつもりだと「御意之覚」で言っている(「徳山御還附之記」、以下同じ)。七月には、旧徳山家臣を、家老も含めて萩家臣団に編入した。七月から八月にかけて、徳山の館は解体されて、用材は船積みされた。館の大囲いの壁や門は取り崩され、蔵本・作事方・船蔵・武具方等も解除されてしまった。元次の嫡子百次郎や息女は、五月に萩に移住、江戸にいた次男三次郎(広豊)もしばらくして萩に移住した。この年の暮、家老五人は、徳山毛利家が断絶したのだから、「御家老として其科(とが)難レ遁(のがれがたく)」という理由で遠島となった(「毛利飛驒守様一件」)。