一七一九年(享保四)五月十八日の晩、吉元は老中水野忠之に呼ばれ、将軍吉宗の内意を伝えられた。内意の内容は、前将軍家継の代に、吉元から元次を隠居させたい旨願ったところ、「御預」(改易)となった。そのとき元次をよく取り調べもせず、そのうえ吉元の申立てもさしたることでもなかったので、今度元次の「御預ケ」をゆるしたいと思う。そこで吉元の先年の願い通り、元次を隠居させ、子の百次郎へ知行を相応に与えるようにせよ、というものであった。吉元は、「御請」(承知)をしたうえで、百次郎への知行は、元次に与えていた通りもとのように与えたい。また、元次は無礼で行跡もよくなかったので隠居を願い出たのであり、今回預けをゆるされても、百次郎の後見をするようでは困るので、そのように処置してほしい、と希望を述べた(「毛利飛驒守様一件」、以下同じ)。五月二十八日、内意通り正式に申渡しがあり、徳山藩の再興が決まった。六月一日には「内証分高三万石」、参勤のこと、江戸上屋敷下屋敷拝領のこと、徳山に館を置くこと、三次郎は構いなしのこと、なども決まった。「内証分高三万石」の「内証分」とは、本藩主が防・長二カ国をまるごと将軍から拝領し、そのうえで支藩に内配りをして与えることを指し、これは以前と同じである。
しかし「高三万石」は、以前とは違う。一六三四年(寛永十一)の認知以来、四万五〇〇〇石が徳山藩の公称高であった。一六一七年(元和三)の内証分知のさいは、慶長検地高で三万石と呼ばれ、寛永検地で四万一〇石の内検高を得ていた。三四年の幕府への届にあたっては、就隆の強い希望が容れられて四万五〇〇〇石と届けられた、という経緯がある。領地は全く同じ所を与えたが、公称高を再興にあたって低く押えたのであり、以後の本・支藩関係を慮っての本藩の処置と考えられる。なお、幕末の一八三六年(天保七)徳山藩の城主格許可にあわせて、四万石余の公称高(普請等の役はこの高に応じて勤める)になるよう本藩から将軍へ願って許可されている(毛利家文庫「徳山御内願一件」)。これで寛永内検の高まで回復したが、四万五〇〇〇石の公称高まで回復することは、ついになかった。