再興決定後の大きな作業の一つは、配地(くばりち)の引渡しであった。配地所柄は、前々の榜示(ぼうじ)物切(境界)に相違ないようにし、六月四日の予想では、「村分御引渡之儀ハ、当八月より内被二仰付一」と、八月中には終了するはずであった。八月に配地は前々のように返進し、論地(境界について出入のあるところ)については、本・支双方のために「持方能(よき)やうニ」処置するとの基本方針のもとで、四名の引渡し役人を本藩から派遣した。彼らは、四年前に還付されたとき請取った帳で作業し、不都合があれば「往古之御帳」(「元和・寛永打渡坪付帳」)と引き合わせ、村々を打ち廻ることとした。ところが徳山側代官の米田左兵衛は、村々を廻るには及ばず、還付のとき自分が渡した帳をもとに、徳山で請取りの作業をしたいと申し出た。米田の「下心」は、「久米境まんまく山(万役山)墓の尾山之物境」を気にしており、墓の尾山が本藩領と確定してしまうのを恐れている、と本藩側は解した。こうして容易に折合いがつかず、そのうえ急に百次郎の江戸下向のことがあって、引渡しは延期となった。
九月十七日、引渡し役人の四人が萩を出発し、まず奈古・大井から、論地がある所を双方相談のうえ「物境を立、引渡相済」せた。その後すぐに徳山へと向かい、引渡しをすすめたが、須万村・遠石村・馬屋村・大河内村だけ引渡しができない。論地自体は、万役山だけでなく、各所に存在したわけである。十月に、もっとも問題となった墓の尾山・万役山の見分が行われた。本藩は、墓の尾山は本手領であり、万役山に境界があるという立場であるのに対し、徳山藩は、墓の尾は万役山であるという立場であった。久米村の「地下上申絵図」によると、村の西端に「墓ノ尾」と「万役山」が描かれており、両者は山続きである。本藩は、墓の尾は当然本藩領とし、後年のために万役山を本藩に上地させて替地を与えるという方針でのぞんだ。この件について、徳山領の百姓・町人は、すぐには納得しなかったが、結局右の通りに結着した。万役山田畠一一石一斗一升三合が上地され、替地として「白見か森・馬屋尻・いんなひ三ケ所」田畠一一石一斗一升三合が引き渡された(「徳山藩史」)。「万役山御替地之儀、去七日迄ニ何も無レ滞相済」とあるとおり、十二月七日までかかってようやく引渡しは完了した。
引渡しが難航している間に、「須万村五ケ村百姓共」(紙年貢を納めている村々)が、紙仕入米銀の相場決定に関し、藩に「御断(おことわり)」があるといって、徳山へ出て来た。本藩の引渡し役人が、彼らを説得して久保市まで立ち退かせている。また須万村等の訴訟を伝えきいて、「四熊・大向・大通り其外村々」も種々訴訟を企てている。本藩では、「御配地御引渡之時節を見立、種々御断事を催シ候と相聞候」と観測し、警戒している。
地下上申絵図、久米村万役山付近(山口県文書館蔵)