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改易の残したもの

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 元次は、ゆるされて新庄から江戸へ帰って来たが、間もなく一七一九年(享保四年、つまりゆるされた同年)十一月十九日に、中風がもとで死去した。四九歳であった。翌二〇年一月には、徳山新藩主元堯が、当春の暇帰国を希望した。本藩では去秋に参府したばかりで、今年の暇は無理であり、また来年は吉元の在府年(他の支藩は帰国年)であって、元堯と相番(参勤・帰国を同じ年にすること)にして後見したいと考えていた。そうなると、徳山の普請(館・諸役所ほか)は当春から取り掛かってゆっくり完成させ、それぞれの部屋ができた上で、萩から三次郎らを引っ越させればよい、との思惑であった。徳山藩側では、元堯の帰国を急ぎ、普請も急いでいた。また、三次郎の引越しを本藩が引き延ばすのは、萩に「人質」として置きたいからではないかと徳山家中は考えた。本藩からすると、「御本家被差閊(さしつどわれ)候様成事のみ申立、次ニハ八郎左衛門致苦敷(くるしき)様ニ仕懸申」とみえた。八郎左衛門は、本藩からの付家老である。三次郎は、二月十六日に萩を出足し、十八日徳山に着いている(以上「毛利飛驒守様一件」)。
 館の普請は、二〇年(享保五)四月に幕府の許可がおり、二二年(享保七)春手斧初・鍬初、二三年(享保八)三月落成した。館、諸役所まで、本藩による造営であり、「新銀四百八拾五貫目」もの大出費であった(「徳山藩史」)。
 この改易一件によって、本藩は宗主権の再確認を行った。それが本藩の得たことであろう。しかし、この一件は本藩の当初の意図を超えた結果を招いた。再興の過程においても本・支の思惑の違いを露呈することで、互いの不信感をつのらせてしまい、また、両者の関係に混乱を招いた一件であった。