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宿場町花岡市

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 徳山領から萩本藩領久米村を通り末武村(のちに末武上、末武中、末武下、平田開作の四カ村に分かれるが、当時は一括して末武村)へ入る道は、現在、久米から和田地区へ抜けている下り坂の道で、その境は坂本川であった。ここから末武川まで直進した道は、現在は和田橋を渡って川の東土手を北上しているが、「絵図」では西側をしばらく北上し川を渡って、下広石で花岡方面へのびる現在の道へつながっている。

地下上申絵図、末武村(北部)(山口県文書館蔵)

 和田には北側の山手に真言宗受天寺(現日天寺)が、中村には同玉泉寺、浄土宗蓮生寺、真宗福円寺が見える。西国大名が参勤のさいに通行したのもこの往還道で、左右の沿道には往還松が立ち並んでいるが、その面影はいまはない。川を渡ったところに一里塚があり、これもいまは見られない。人家は和田にはなく、中村では往還道沿いとその南側に点在しているにすぎない。
 花岡市へ入ると、八幡宮鳥居の手前三町ばかりのあたりから往還松がなくなり、道の両側に家が密集し、それが生野屋村との村境い近くまで続いており、当時、すでに八幡宮を中心に町場を形成していたことを絵図は示している。花岡市は八幡宮の門前町として、また宿場町として栄えたところで、その町並みの躍動的風景が一七九七年(寛政九)、徳山藩の画師南陵、雲陵らの手になる「八幡宮例祭巡幸絵馬」に描かれているが、この絵が誇張表現でなく、当時すでにこの絵のとおりに道の両側に家が密集して繁華街をなしていたことは、「絵図」からも想像できる。

花岡八幡宮例祭巡幸絵馬の下絵

 鳥居前から東へ進むと浄土宗法静寺とそれに接して高札場が見える。さらに小道一つ隔てた東隣に大きな建物があり、「御茶屋、勘場、御番所」とまとめて記されている。この三つの建物の構造、配置について「絵図」からは分からないが、「八幡宮例祭巡幸絵馬」の下絵(八幡宮蔵)にはそれが克明に描かれている。これから、藩主の宿泊所である御茶屋、都濃宰判の代官事務をつかさどる勘場、「天下御物送り場」として交通業務にたずさわる御番所の三者がそれぞれどのような規模の建物の中でどのような配置関係で執務していたかが十分にうかがわれる。
 藩主、諸大名、上層武家が藩公営の本陣である御茶屋に宿泊したのに対し、一般家臣は庄屋野村家の営む本陣「上の野村屋敷」に泊まった。これは現在の花岡小学校の南側にあったという。「絵図」にはこれについて記されていないが、一八〇五年(文化二)十月、長崎からの帰途ここに一宿した文人大田蜀山人も「松原を行て花岡の駅につきぬ、(中略)本陣野村又左衛門がもとにやどれり、あるじは酒つくる事を業として、錦川酒といふをすすむ」(「小春紀行」)と記しており、ここが「本陣」と呼ばれていたことはまちがいない。法静寺も宿泊所として利用されることが多く、その他にもいくつかの旅籠があったらしいが、その所在ははっきりしない。
 なお、この地域については一七六二年(宝暦十二)に作られた「末武上村小村絵図」(末武北村役場文書)があり、軒別絵入りで記されているのでこれを掲げておこう(図1)。各屋敷の石高はもとより家の形まで書き分けられており、当時の町の様子を知る恰好の史料である。家がぎっしりと建て込み、すでに二階屋もあり、相当に活気のある町であったことが推測される。ただ、これだけ家が道に面して軒を並べているからには、各種商いの店があったにちがいないが、「小村絵図」からはそれは分からない。

図1 花岡市町筋の屋敷配置図
「末武上村小村絵図」(1762年)より作成。

 この町筋には商家として財をなした家が多く、上原(醬油)、中村(酒)、磯村(衣料)、藤井(蠟燭)、金藤(味噌)等の豪家が町の中央近くにあった。ただ、それらの大半は幕末から明治初年に急速に成長した家で、この「小村絵図」に記されている家が直接それらの先祖であったかどうかは判明しない。しかし、いずれにしろ十八世紀中期にすでにここに見られるような門前町、宿場町を形成するだけの、この町の経済力がこれらの豪商を生む母体をなしていたことは事実であろう。