下村の原垣内には若宮が、中村の砂子には荒神社が祀られている。砂子からは南の山へ向かって河内村へ抜ける道がのびている。今は、この道を通る人は少ないが、当時は西隣りの末武村が本藩領であったため生野屋村の住民は、山を越えた河内村との交流の方が盛んで、かつてはこの道の利用度は高かった。
地下上申絵図、生野屋村(山口県文書館蔵)
現在の道とほぼ同じコースを通っていた往還道は、中村あたりから現在の道を右にそれ、南の山ぎわから坂道をのぼり、塩売峠を越え、山田村の南端をわずかにかすめて河内村の岡市、窪市へと通じている。このあたりは道が嶮しく、旅人にとって難所であったといわれ大田蜀山人も、
二十一日、天気よし、夜明けてやどりを出て田間をへて土橋をわたれば、左は藪、右は水流なり、小坂を上りて又石段ある坂を上る、左は谷深くして田あり、山田といふ、又坂を上り下りて又上る、又下る事長くして、左に従二赤間関一二十七里、従二小瀬川一九里といふ杭あり、人家はつかに見ゆ(「小春紀行])
と書き留めている。この記述どおり、この道の上り下りは旅人を苦しめるところだったとみえ、絵図では山田村の寄りつきに「御籠立場」と記されている。参勤の大名たちもここで休憩したのである。「小春紀行」に書かれているように、山田村は塩売峠から見れば、谷深いところにあり、川を挟んで細長く横たわった村で、往還沿いには一般の家はまったくなく、一里塚(現在はない)とその南に真宗光円寺だけがあった。
地下上申絵図、山田村(山口県文書館蔵)
岡市、窪市と峠市については一七四一年(寛保元)に徳山藩が作成した「御領内町方目安」に記されている。これによると、岡市は東西百間、道幅約一丈、家数北側八軒、南側一〇軒、人数八八人の小さな市で、「絵図」には市の中ほどに戎堂(現存しない)が見える。これより長い下り道を行くと宿場窪市へ出る。「町方目安」には、東西二町二十間、道幅約二間二尺、家数北側二五軒、南側二六軒で、表口一七間のお茶屋と同三間の高札場があり、宿馬は一〇匹とある。駄賃は花岡まで二八文、呼坂まで四八文。寺社は浄土宗西蓮寺、地蔵、大日堂、荒神、戎堂があがっている。宿場らしく市年寄原田善左衛門の酒屋もあり、小規模ながら町場を形成していたことは「絵図」からもうかがえる。
窪市から木橋を渡って道は本藩領切山村の下村へ入っていく。切山村はわずかに南端(岩徳線久保駅北)をよぎるだけで、徳山領来巻村の峠市を経て本藩領大河内村へと通じている。峠市は、東西一町六間五歩、道幅二間で、人家は北側に七軒、南側に七軒が道にそって並んでいる。