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末武川~切戸川

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 海岸沿いに徳山領粟屋村から末武村へ入る場合、その境は、末武川河口西側、荒神山の山麓付近で、道はここから川を渡り、東土手にそってやや北上し、東へ折れて大呑町、西市へと通じている。道の南側は「絵図」に「毛利市正知行所」とあり、このあたりは吉敷毛利家が一六八八年(元禄元)に開発したところで、平田川と末武川の間の海岸寄りはすべて塩浜である。塩浜と水田との境界付近に龍神社(現埴安社)と塩竈社(現祗園社)があるところからみて、現在のほぼ山陽本線ラインから南側が塩浜であったと考えられる。なお、「絵図」にはこの塩浜からさらに南と、平田川、玉釣川両河口間に別筆でそれぞれ「須佐開作」、「塩浜四町」と書いた紙が貼ってあり、この地に後で塩浜が作られたことを示している。前者が一八三三年(天保四)に須佐益田氏によって開発された「須佐開作」、後者が一七八五年(天明五)開かれた通称「四軒桝」で、この地域は「絵図」の作られた時点ではまだ完全に海中だったのである。大呑町のあたりは、近世初期まで沼地であったのを西市の林家が開作したといわれているが、このころはすでに集落ができ、道の西側に人家が建て込んでいる。

地下上申絵図、末武村(南部)(山口県文書館蔵)

 ここから平田川を渡って東へ進むと、左手に狐塚の墓地があり、それを過ぎると西市の町並みが見えてくる。町の西端付近に地蔵堂(今は正福寺に合併)、米蔵があり、中ほどに高札場が、さらにその東に正福寺、貴船社がある。『注進案』によると、この道は、本往還ではないが、上関、大嶋、熊毛方面への往来道で、他国役人が風向きにより船を利用するときは宿継ぎをするので、馬六匹、人足三三人を用意していた。また、西市の町は道幅二間半、家数四〇軒で、瓦葺き二〇軒余、藁葺き二〇軒、土蔵一一軒を数えたという。
 貴船社から数軒過ぎると玉釣川土手に出る。このあたりは船着場として早くから開けたところで、商家や荷揚場が多かった。すなわち、道の北側には川に接して銭屋、その西に播磨屋(磯部家新宅)が、また南側には荷揚場がいくつも並び、その西、貴船社の前には大庄屋格の山城屋(林家)があったというが、「絵図」の時代にそれらがすでにあったかどうかは分からない。

地下上申絵図、豊井村(西南部)(山口県文書館蔵)

 玉釣川を渡ったところからが徳山領豊井村で、家が密集し、繁華街をなしている。豊井村のうちでも、この街筋とその裏町だけが町方支配の下松町で、それは、「御領内町方目安」によると、中河原、中市、東市、新町と裏町および裏の裏町からなっていた。
 玉釣川から切戸川までの間が中河原町で、道幅二間五尺。道の南側は「畠開作」で、この部分は地方支配となっている。