地下上申絵図、末武村(南部)(山口県文書館蔵)
ここから平田川を渡って東へ進むと、左手に狐塚の墓地があり、それを過ぎると西市の町並みが見えてくる。町の西端付近に地蔵堂(今は正福寺に合併)、米蔵があり、中ほどに高札場が、さらにその東に正福寺、貴船社がある。『注進案』によると、この道は、本往還ではないが、上関、大嶋、熊毛方面への往来道で、他国役人が風向きにより船を利用するときは宿継ぎをするので、馬六匹、人足三三人を用意していた。また、西市の町は道幅二間半、家数四〇軒で、瓦葺き二〇軒余、藁葺き二〇軒、土蔵一一軒を数えたという。
貴船社から数軒過ぎると玉釣川土手に出る。このあたりは船着場として早くから開けたところで、商家や荷揚場が多かった。すなわち、道の北側には川に接して銭屋、その西に播磨屋(磯部家新宅)が、また南側には荷揚場がいくつも並び、その西、貴船社の前には大庄屋格の山城屋(林家)があったというが、「絵図」の時代にそれらがすでにあったかどうかは分からない。
地下上申絵図、豊井村(西南部)(山口県文書館蔵)
玉釣川を渡ったところからが徳山領豊井村で、家が密集し、繁華街をなしている。豊井村のうちでも、この街筋とその裏町だけが町方支配の下松町で、それは、「御領内町方目安」によると、中河原、中市、東市、新町と裏町および裏の裏町からなっていた。
玉釣川から切戸川までの間が中河原町で、道幅二間五尺。道の南側は「畠開作」で、この部分は地方支配となっている。