以上の本通り筋以外に町方に属していたのは、中市、東市通りの南側裏筋の裏町と、その南側の裏の裏町とであった。家数は、本通り筋が二二七軒(瓦屋三五軒、板屋二一軒、茅屋一七一軒)、裏町が八一軒(板屋一軒、茅屋八〇軒、ほかに土蔵一軒)、裏の裏町が五四軒であった。また船は全体で、回漕用のいさば船二四艘、漁船六一艘、小漁船一四艘がいた。
本通り筋には、酒屋が五軒、職人も紺屋八人、鍛冶屋七人、桶大工四人、家大工、船大工、畳屋各二人、屋根葺、挑灯屋、仕立屋各一人がいて、すでに職業が多くの種類に分化していたことを示している。(「御領内町方目安」)
新町を過ぎると町並みは途切れ、道は砂浜のすぐ傍を通る。一里塚が「絵図」には見えるが今は残っていない。このあたりは現在の国道一八八号線とほぼ同じコースをとっているが、二軒屋から主要道は山手へ向い、大谷川を渡って繁昌、中豊井の集落へ入る。正立寺の門前を過ぎ、左山手に妙法寺、その東に慶雲寺を見ながら東南へ下ると鯉浜へ達する。道と海岸との間にかなりの家が見え、道が通っているあたりは海に接しているわけではないが、そこに「此所往古塩浜也」と記されているのが目をひく。中世では、近世の「入浜式」とちがって、海岸よりやや高いところに地場をつくり、海水を運んで撒布し、太陽熱と風力によって鹹砂(かんさ)を得て製塩する「揚浜式」が盛んであった。このあたりでも、おそらくこのような方法で行われていたのであろう。
一方、二軒屋から山手へ左折せずに、そのまま海岸沿いに直進する小道もある。この道を進み、大谷川を渡ると、突き当たりに弁才天を祀った屋敷があり、「磯部好太郎」と記されている。ここが、東豊井の海岸部を広く干拓して製塩業をおこし、徳山藩の代表的な豪商として活躍した磯部家の分家宮洲屋(第六章、1)の邸宅で、その場所は、現在の東洋鋼鈑正門東のところである。この邸宅は「覧海軒」と呼ばれ、二方に堀があり、高い塀をめぐらして城郭のような景観を呈していたという。「磯部家文書」にもその様子を描いたものがあり、宮洲屋繁栄の一端がこの絵からもうかがえる。この絵にも見られるように、宮洲屋の東南には、屋敷に接して広大な塩浜があり、西側には竜神も祀られていた。豊井村には、その後、この地域から西にいくつもの塩田ができるが、「絵図」の段階ではまだこの塩田以外には見られない。
地下上申絵図、豊井村(宮ノ洲地区)(山口県文書館蔵)
近世の入浜式塩田は、初期の段階では、南蛮樋を潟沼を利用した自然浜に設けて作られたものであったのが、やがて土木技術の発展に伴い、遠浅の海の沖合いを塞き止めて大規模なものが築かれるようになった。この方が、隣接地の悪水や河川の淡水の流入を防ぐことができるからであるが、この宮洲屋の塩田も後者の形態であった。大谷川河口から宮ノ洲の先端まで海中に突き出して石垣が組まれ、その内側に土手と水路があり、その中が塩田となっていることが「絵図」からよく分かる。
宮ノ洲塩田の風景画
当時すでに、瀬戸内の各地に同様の塩浜はあったが、宮ノ洲の地を通る旅人の眼には、製塩で活気を呈しているこの町の風景と宮洲屋の豪邸とはよほど珍しいものに映じたらしい。たとえば、一七八三年(天明三)二月、この地を西へ下った古河古松軒と、一八〇二年(享和二)四月、同じく西へ下った菱屋平七の二人の文人は、それぞれつぎのようにこの町の印象を記している。
島田村より久田松村までは塩浜数万町、地の利至て能き所にて富饒の所なり、磯辺由之助と云豪家あり、徳山領にて格もくだされ、家造りも海へ築出して小なる城を見るがごとく、防長二州にての富豪なりと土人の云、予も立寄りてあるじに対面せしに、不風雅なる人なり、猶繁茂すべき家相ありき、徳山は毛利侯御知行御在所にて、市中もあしからず、人物言語大概にて諸品とぼしからず(「西遊雑記」)
魚が縁(へり)村をすぎて、くだ松の駅にいたる、(島田より此迄二里)一里余の入海の辺(はた)なり、この入口より二丁許此方に、とゆひといふ塩浜あり、是迄の塩浜は、舟にてよそにのみ見つゝ過ければ、珍しくてよく見聞するに、先渚(なぎさ)の方に塩焼共の家三四十見え、大道より浜手へ向けて土手を築て、数百反計りの地を平らに概して、それに砂をふり散し、さらへにてならして、其上に潮を汲かけて日に干す、是等皆女の業なり、かくて其砂をかき寄せて、大なるへつひの様なる所に入と、其上に又潮を汲かけて、灰汁(あく)をたるゝ様にして、其垂たるを塩釜に汲入ておくなりとぞ、此駅の町屋二筋あり、本町といふを行つゝ見るに、蔵造りの瓦葺の家多し。町の中程に川あり、石橋を掛たり、橋を渡りても町の様はかはらず、すべて問屋多し、町今少しにて尽なんとする所に、又小川あり、此川を境にて、是迄は徳山の領、川より西の方は萩領なり(「筑紫紀行」)
すでに道筋には蔵造りの問屋が軒を並べ、地方には珍しい繁華な町であったこと、その発展の母体が製塩にあったことがこの二つの紀行文からだけでも十分理解できる。
さて、眼を再度もとの主要道に向けると、鯉浜を過ぎ本藩領浅江村まで右は海、左は山に挟まれた細い道があるだけで、人家はない。海岸の岩には孕岩、赤岩などの名称が記されている。奇岩として知られていたのであろう。浅江村とは、魚返の小川が境をなしていた。