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干拓と塩田の成立

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 まず末武地区についてみてみよう。前節で述べたように、末武平野の南部はかつて沼地が多かったと伝える。それが徐々に干拓されていったのであるが、年代的にはっきりしている最初のものは、大入海沖の平田開作で、一六八八年(貞享五=元禄元)に吉敷毛利氏によって干拓され、末武村から分かれて平田開作村となった。このうち海岸部の農作物耕作不能地を塩田にし、他を水田とした。その面積は、塩田一一町三反七畝六歩、水田三四町二反一畝一三歩、畠三町七反四畝であった(『注進案』)。
 ついで、玉釣川西土手から平田川までの間の西市沖ノ浦開作が一七八五年(天明五)に潮止めされている。これについて「宍戸様御開作浜」とあるが、現在では「山本開作」とも呼ぶ。三丘宍戸家が拝領していた土地を熊毛郡三井村の山本庄平が銀五貫目を出資し、西市の倭屋源右衛門兄弟らの協力を得て開作したからである(倭屋文書「山本開作記録」)。面積は、田畑一四町八反余、塩田八町余(「旧耕調査」)で、塩田は加賀屋(一七八五年開立)、戎屋(同冬開立)、伊勢屋(一七八六年冬開立)、薩摩屋(一七八七年冬開立)の四軒の浜に分けて製塩していたことから、四軒桝と呼ばれていた。山本開作の西、平田川沿いの須佐開作七町五反余は一八三三年(天保四)須佐益田氏によって、また一の桝開作の一四町余は三八年に佐波郡右田村の坪郷某によって、二の桝九町四反は須佐益田氏によって開作されたという(「旧耕調査」)。
 つぎに豊井村の開作については、その最初は宮洲屋初代磯部好助による磯部開作で、田一町七畝二〇歩、畑五反三畝が一六九〇年(元禄三)に石盛された。ついで、一七〇三年同じく磯部好助によって宮洲開作が築立され、田三町四反四畝一六歩、畑二町一〇歩、塩浜地一二町一反一畝二五歩が造成された。また、六四年(明和四)には末武村重次郎を築立主として西豊井村高洲開作田三町六畝一〇歩、畑四反八畝一五歩が石盛されたが、これは不如意により七年後に塩浜となった。
 その後、この地域の干拓はますます活発化し、七二年(安永元)に下松町銭屋好右衛門による下松浦江開作田二反五畝二七歩、畑五反一畝八歩、七三年(安永二)に柳の清右衛門による西豊井村大小路浦開作塩田二町二反五畝二七歩、畑五反一畝一歩、七八年(安永七)に末武村喜左衛門による西豊井村中河原開作畑一町五反四畝一六歩、同中河原塩田開作一町八反一畝一〇歩、畑六畝二二歩、一八〇二年(享和三)に宮洲屋五代磯部好助による宮洲開作畑七町七反九畝二歩半、一八〇四年(文化元)同じく磯部好助による宮浦開作塩田三町一反五畝一歩、一八〇五年(文化二)同人による新崎開作塩田三町一畝二七歩が開かれている(以上「藩史」)。
 以上は史料的に成立年代が確認できるもののみで、おそらくこれ以外にもなおいくつもの塩田があったであろう。