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製塩の方法

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 『注進案』には平田開作村における製塩の方法が簡単ながら記されている。これと『日本製塩技術史の研究』(広山堯道)および製塩体験者の話などを総合すると、天保年間(一八三〇~四三)ころ、おおよそつぎのような手順で製塩が行われていたといってよい。
 まず製塩を行う時期について、毎年、室積において三田尻大年寄、諸郡浜庄屋、年寄らが正月(旧暦、以下同)十五日と八月十五日の二度集会を開き、その年の天候を見計らって、それぞれの持始め(操業開始)、持止め(操業終了)の日限を話し合いによって決めた。これは、後述するように、各浜が自由に生産したのでは生産過剰になり価格が暴落することがあるので、需給のバランスをはかるために一七七一年(明和八)からはじめられた三八替持法(=三月から八月までの六カ月間、塩浜を二分して操業する方法。詳細は後述)に基づくものである。
 塩浜には一町五反につき百台の沼井(ぬい)(濃い塩水の付着した撒砂を寄せ集めてこの中に入れ、海水を注いで鹹水を濾過させる装置)があり、二月上旬から浜子四人が地場(地盤)を整備(潮水の毛細管作用をよくするために地面を鉄子で何度もかきならし、その上に塩の結晶を付着させる採鹹用の原土=入替砂を撒く)し、三月上旬から八月下旬まで操業する。この間、晴天で操業可能日数はおおよそ百日である。地場は、大小にかかわらず、二分して半分ずつ隔日に採鹹し、潮水は、門樋の開閉によって、満潮時に地場の溝へ引き入れ、干潮時に雨水とともに落とす。
 採鹹(持目という)の日は、浜子は午前中に浜引きで砂をかきならし、昼に塩の結晶のついた砂を寄せ集めて沼井へ入れる。つぎにその砂を踏みならして塩のかたまりを砕き、にない桶でその砂に潮水を汲み入れて沼井で濾過して塩分の濃い鹹水にして前坪にしたたり受け、それを塩釜で石炭焚きするために台坪に担ぎ入れる。そして早朝、沼井から掘り出した骸砂を地場に均等に撒き、引板でならし、その上に溝の潮水を撒く。
 塩釜は、まずかまどを作り、その上に板を敷いて枠を作り、小石と山土をその中に入れ、灰と塩を混ぜたものをその間に塗り込め、中へ鉄の鉤二八本を植えたて、それを大束(松の割木)二五把入れて焼き固めて作る。そして、この釜の四方に柱を立て、七本のけたを張り、それに鉄の鉤を縄で結びつけて釜をつるす。釜の広さは一丈五寸に七尺五寸、深さ五寸で、一釜に要する石炭は二一貫目。同じ釜は三〇日余しか使用に耐えないので、一年に五度ばかり釜をつき替え、一年間に一六〇日間焚く。煎熬は、まず台壺から取り出した鹹水を六杯ずつ温目釜に汲み入れ沸騰させ、つぎにそれを塩釜に移して焚き干し、さらに塩籠に入れて苦汁(にがり)を垂らして出来上る。一釜で約七斗の塩が出来る。釜焚き役は、正午から真夜中までと、真夜中から正午までとで人は代わるが、昼夜連続で焚きつづける。

図1 一の桝塩田の釜屋
「三田尻塩務局下松出張所報告」(『大日本塩業全書』所収)より引用。