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生産費と販売高

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 表4は平田開作村と末武下村の塩の生産量、売捌き高を示したものである。これによって両村が塩田からいかに多くの収入を得ていたかが分かる。すなわち、銀一〇〇匁を米二石と換算すると、平田開作村では米二〇八四石余、末武下村では一四四四石余に相当する銀高を塩田から得ていたことになる。
表4 塩の生産高および売捌高
塩田面積生産量売捌代銀反当
生産高
100匁の売捌量
町 反 畝 歩石斗貫 匁 分
平田開作村11. 3. 7. 0612,509. 2104. 243. 3110.012.0
末武下村 8. 6. 6. 18 8,660. 0 72. 220. 0 99.912.0
『注進案』より作成。

 しかし、塩田経営には多額の費用がかかったことも見逃せない。たとえば、『注進案』平田開作村の項には塩田に要する経費の明細が記され、それによると表5のように計九七貫八四匁もかかっている。年間売捌代銀の一〇四貫二四三匁三分からこの額を差し引くと七貫一五九匁三分となり、塩業は収入も大きいが、しかし同時に、多額の生産費を要していたことが分かる。なかでも石炭の占めるウエイトが大きく、全費用の四〇パーセント近くがこれに当てられている。これだけの経費がかかってもなお石炭の使用が時代をおって盛んになっていったのは、従来の燃料-主として松の枝葉や薪-よりもはるかに燃費がかからなかったからである。
表5 平田開作の製塩に要する年間費用
費 用銀 高
貫 匁
浜子釜焚給恩銀20.100
浜子飯米代銀 5.440
諸日雇賃金 8.760
石炭代銀41.184
縄莚代銀 8.960
諸道具減り銀 1.880
釜屋諸道具減り銀 1.480
地場入替砂山土代銀 1.760
諸雑用銀 4.360
釜屋、台坪、諸固屋等取繕諸入目銀 1.720
同上建替諸入目銀 1.440
97.084
『注進案』より作成の小川国治論文「長州藩における石炭業の展開」(『山口大学教育学部研究論叢』第36巻第1部)より引用。

 近世、製塩の燃料となった木は塩木と呼ばれ、この塩木を確保することが塩業経営の最大の課題であった。というのも、一町歩の塩浜で毎年、安定的に燃料を供給するには七五町歩の山林が必要であったといわれているほどで、膨大な燃料を要していたからである。このため、各塩浜とも塩木の入手に腐心し、それだけに、石炭を使用すると木焚きの場合よりもはるかに燃費を節約できることが分かってくると、競って石炭導入に転換していった。
 瀬戸内塩田での石炭焚きは、一七七八年(安永七)、忠左衛門という人物が豊前曽根塩田から石炭焚きのかまどの作り方や焚き方を伝習して帰り、吉敷郡青江浜(秋穂)と三田尻とで行ったのがはじまりと一般に言われているが、最近の研究によると、それより早く、すでに十八世紀の中期(宝暦~明和)に石炭の販売が舟木宰判の諸村で盛んに行われていたようである(小川国治、前掲論文)。したがって、周防部へも従来から言われているよりも早く伝えられていたかもしれない。その正確な年代は分からないにしても、十八世紀中期以降はじまった石炭焚きはその後、急速に普及し、十九世紀初期までに周防のほとんどの塩田で採用されるようになったとみられる。徳山藩では、一七九五年(寛政七)三月「右御領内塩浜之内、近年石炭焚候もの間々有之様ニ相聞へ候、右石炭焚之儀以来差留候条、此段手堅可申付候事」(「大令録」)と、石炭焚きを禁じた史料があることから、石炭がすでに使用されていたことが分かる。石炭使用を禁じたのは、他藩でも見られるように、石炭の普及で塩木の値段が下落し、その運上銀が減少することが懸念されたからである。しかし、製塩業者たちの石炭焚きへの欲求は強く、藩側は翌九六年、御手山(藩有林)の薪を伐採したときに限りこれを浜中へ割付けて売渡すという条件つきで石炭焚きを許可している。しかも、この御手山薪売渡しの条件も、塩相場下落を理由に製塩業者側が強く反発したため、一八一〇年(文化七)にはこれを一時的に取り下げている。これが全廃されたのがいつかは分からないが、このような段階をふんで徐々に石炭焚きは普及し、『注進案』の段階ではすべて石炭焚きとなっていたのである。それは、薪代よりははるかに費用がかからなかったが、それでも表5に示したほどの代金を要したのであった。