塩業には、以上のような生産費がかかるうえに、さらに浜銀、畠銀という貢租が課せられた。たとえば、平田開作村の場合、浜銀として銀二貫六一八匁五分三厘、畠銀として銀八匁九分六厘、計二貫六二七匁四分九厘が徴収されていた。したがって、売捌き銀一〇四貫二四三匁三分から生産費(表5)九七貫八四匁と、右の貢租額とを差し引いた四貫五三一匁八分一厘が、製塩による村全体の収益銀高であった。
ただ、これは表4からも分かるように、一〇〇匁につき一二石で販売する場合のことであって、値段がこれ以下に下ると経営は非常に苦しくなる。すなわち、仮に一〇〇匁につき一三石になったときは、売捌き代銀は九六貫二二四匁六分で、三貫四八六匁九分の赤字となる。『注進案』三田尻宰判浜方の項に「塩売相場正銀百目ニ付拾石より内ニて無之候得は儲銀無数、勘定相不申候、塩余分出来候時は諸雑用多ク掛リ勘定悪く御座候」と、生産過剰で一〇〇匁一〇石以下になると利潤がなくなることを記している。平田開作の一〇〇匁一二石は、まさに採算上限界に近い値段であったといえよう。
ところで、このように生産過剰が重大な問題となってきたのは、もともと塩業による収益が大きく、十七世紀末以来、多数の塩田が瀬戸内一帯に造成されたが、そのため十八世紀中期以降、需給のバランスが崩れ、塩値の下落によって経営危機に陥るケースが多くなり、塩業は、方策を一つ誤ると大きな欠損を出す危険性をはらんだ産業であることが自覚されるようになったからである。その打開策として、各浜が協定を結んで生産調整を行うようになったが、これについて、『注進案』はつぎのように記している。
近年は功者ニ相成、地場半方宛日替ニ持立申候、年々上下之浜所より室積へ集り致会合候て塩余分出来不申候様一統持目之申合仕候
これがいわゆる「休浜法」で、一年中、毎日、全地場を全面操業するのではなく、秋冬の間の日中が短く塩付きの悪い期間を休浜とする。しかも春から夏の期間は各塩田をそれぞれ二分して半分ずつ隔日操業することとし、その操業期間(持目~持止)を各浜代表の話し合いによって決定するやり方である。
この休浜法は、一七五九年(宝暦九)に安芸瀬戸田浜の三原屋貞右衛門が、十月から翌年一月までの四カ月間の休浜を主張し、安芸、備後の塩田経営者間に休浜協定を成立させたのが最初であるが、しかし大坂市場に近い播磨・備前・備中・阿波・讃岐等の不参加によって効果をあげることができなかった。これをうけて、一七七一年(明和八)から再び休浜法の成立に情熱を傾け、ついに成功にこぎつけたのが、周防三田尻塩田の豊後屋田中藤六である。彼は、三月から八月までを操業期間(三八の法)とし、その期間内でも一枚の塩田を半分ずつ隔日操業(替持の法)する「三八替持の法」によって労働を四分の一に節約できることを主張した。藩の支援を得てこの協定をまず防長塩田において成立させ、さらに安芸、備後、伊予にその必要性を説いて回り、ついに五カ国による休浜協定を発効させるに至った。これによって、安永年間(一七七二~八〇)ころから塩の値段がもち直して、塩業は繁栄をとりもどし、その後、五カ国以外の諸国もこれに加わり、幕末には十州同盟の成立をみた。藤六による休浜法が塩業発展に大きく寄与したことは確かであるが、ただこの休浜法に定める操業日数に関し、防長内でも不満をもって、協定に違反する者も多く、藤六没後もその対策にしばしば苦慮することがあり、直線的にすべてが進んだのではなかった。