とくに徳山領の豊井浜やそれに隣接する平田浜では、三田尻浜主導のこの協定に対する反発が強く、たびたび問題をおこした。「塩浜大仕組ニ付他国経廻録」『防長塩業史料集』所収)によると、一七七一年(明和八)十月二十五日、休浜の同意を得るため三田尻港を出帆して諸国遊説の途についた藤六が、翌二十六日、最初に訪れたのが平田浜の境屋重郎左衛門と末光勘兵衛で、同意の調印を得ている。ついで二十七日には豊井浜の宮洲屋で番頭伊平、棟末庄兵衛に会い、さらに平生、小松へと足を運び、周防国内の諸浜を休浜に同意せしめることに成功した。そして、これを足がかりに芸備へ歩を進めるのであるが、最初に藤六の企画に賛意を表明したのは下松の平田、豊井両浦だったのである。
しかし、藤六が没した一七七七年(安永六)ころから防長内においても休浜法が崩れはじめる。とくに最大塩田たる三田尻浜以外の他郡浜、とりわけ徳山領、岩国領の諸浜で、規定の期間外の延業をするものが増加して三田尻浜との対立が強まり、暫定的に三田尻浜のみ三月から八月までの六カ月持ち、他郡浜は二月から九月までの八カ月持ちとして、休浜法を設定することとなった。これに対して、当然のことながら三田尻浜の浜子たちから反対の声があがり、他郡浜なみに八カ月持ちを要求すると、他郡浜は十カ月持ちを主張するありさまで、ますます調整は難航した。なかでも三田尻浜大年寄の呼びかけを無視して行動することが多かったのは、下松浜であった。たとえば、徳山領宮洲浜一六軒は、規定に関する集会にも欠席して濫業し、またその西隣りの中浜は、一七七一年(明和八)の規定成立後に開かれた塩田であることを理由に、規定に従わないで勝手に操業していた。さらに、この両浜の並び浜である本藩領の平田浜と西市浜(平田中浜)までがこれにならって濫業するといった状態であった。