こうして休浜法は復活し、その効果をあげたが、その後も違反操業や持延歎願があいつぎ、紛争はたえなかった。これは、休浜による生産調整が、確かに塩価を安定させるうえで有効な方法ではあるが、三田尻浜のように地形的に恵まれた地域に有利な制度であり、このため、本藩の権力を楯に休浜を強行しようとする三田尻塩田業者への強い不満がつのっていたからである。したがって、規定に特例をもり込ませようとする動きは、大塩田よりも百姓小浜に、本藩領よりも徳山、岩国領に顕著にみられた。しかし、特例を設けると三田尻浜から反対の声があがるという状況の中で、一八一一年(文化八)、三田尻浜大年寄の上申に基づいて藩の郡方は、つぎのような休浜規定を発令した。
覚
一、三月十一日取付、八月晦日上、
右三田尻西之浦共、
一、三月朔日取付、九月十日止、
右諸郡、
一、三月朔日取付、九月十五日付、
右都濃郡并徳山御領、
一、二月十六日取付、九月二五日止、
右小郡宰判之内百姓小浜惣在所、二島、床波、都濃郡平田浜之内同断、三田尻ゟ前後五十日増、
右塩浜規定の事ニ付き此内御申出相成候(以下略)(「塩浜規定取締一件追々之沙汰控」『防長塩業史料集』)
一、三月十一日取付、八月晦日上、
右三田尻西之浦共、
一、三月朔日取付、九月十日止、
右諸郡、
一、三月朔日取付、九月十五日付、
右都濃郡并徳山御領、
一、二月十六日取付、九月二五日止、
右小郡宰判之内百姓小浜惣在所、二島、床波、都濃郡平田浜之内同断、三田尻ゟ前後五十日増、
右塩浜規定の事ニ付き此内御申出相成候(以下略)(「塩浜規定取締一件追々之沙汰控」『防長塩業史料集』)
この規定は、その後の基準となったもので、三田尻浜の不満を押さえ、他郡浜や百姓小浜、徳山領諸浜との軋轢(あつれき)を回避しようとする姿勢がみられるが、とくに下松浜に対して特別な配慮がなされている。すなわち、本藩領の諸郡浜が三田尻浜より二〇日の増持となったのに対し、都濃郡浜のみ例外的に徳山領と同じく三田尻浜より二五日間の増持となっている。この本藩領の都濃郡浜とは平田開作村と末武下村の両浜のことであり、徳山領の豊井浜とあわせて下松湾内の塩田は一律に二五日間の操業延長が認められたのである。これは、同じ湾内で徳山領と本藩領とで操業日数が異なると、これまでしばしばみられたように規定を順守しない違法操業の頻発が懸念されたからであろう。
それにしても、下松浜に限ってこのような特別な処置をとらざるを得なかったのは、藩も三田尻浜大年寄も、下松浜における、一律休浜に対する強い反対運動を無視することができなかったからであろう。その反対の中心人物は豊井浜浜主の宮洲屋(磯部)幸吉で、しばしば規定を無視する彼の行為に大年寄は困惑し、藩権力の介入によって彼の違法操業を中止させようと種々画策した。しかし、右の規定改定以後も彼は本藩の権威に屈せず、本藩による休浜規定の強制に厳しく抵抗した。たとえば、一八六三年(文久三)、幸吉の「不都合之早取付、遅止」の「乱法」行為を三田尻大年寄が「幸吉我侭より事起り、当正月会より下松一統定例之室積会に出席をも不仕乱法之下意ニ相見」と、藩ヘ申し出、そのとりなしを依頼したのに対し、幸吉は「過ル辰年春会之節、稀代之凶作打続、浜職取続も難相成程之儀ニ付、持脳御規定之儀、私共並脇浜よりも種々入割申立及相談候処、三田尻より我意のみ申募、一向相用不申候ニ付、無拠会席引取」(「塩浜規定取締一件追々之沙汰控」)と、逆に非は三田尻側にあると反論し、態度をかえなかった。この事件は結局、郡方御内用係国光武右衛門の仲介によって、ともかくも一応落着したが、このような幸吉の、本藩権威に容易に妥協しない強い姿勢が、休浜法を弾力的に運用させるうえに大きな力となった。それがまた、下松浜が他の本藩領の大規模塩田に伍して経営を拡充、発展できた一大要因であったと思われる(河手龍海『近世日本塩業の研究』参照)。
磯部好吉寄進の鳥居(下松市二宮町弁財天社)