これ以前、近世初期の段階ですでに瀬戸内塩業は塩市場の拡大によって発展の兆しをみせていた。それは、具体的には寛文年間(一六六一~七二年)に成立をみた西廻り海運による北国市場との結びつきである。
元来、塩は価格に比して重量が重く、それに長期には桝目が減少するだけでなく品質も悪化するので、遠隔地輸送商品としては不適であった。しかし、迅速かつ大量にこれを運送できる輸送機関が開発されてくると、その条件は変化し、実は、帆船の発達とそれに伴う全国海運航路の成立によって、塩は遠隔地輸送商品となっていった。すなわち、近世初期の綿作の普及とともに木綿帆による帆船(とくに弁才船)の改良、大型化、また帆走技術の革新は海運業に飛躍的発展をもたらした。これが西廻航路誕生の直接の要因となり、さらに北洋漁業の拡充によって北国での塩の需要が急速な高まりをみせていた時期だけに、瀬戸内塩はこの航路に乗って北国に大きく販路を伸ばすこととなった。しかし、急激な塩市場の拡大は、無制限な塩田開発を招き、一時は生産過剰から大不況をもたらすこととなった。その対策として、前述のような休浜法を実施するに至ったのであるが、それが効を奏して、以後は立ち直りをみせ、広範な販路によって多大の収益をあげた業者は多い。
ところで、下松塩はどの地方で販売されたのであろうか。平田開作村の場合、表6に示したように約三割が藩内、七割が藩外で売られていたことが『注進案』の記述から判明する。ただし、その詳細はよく分からない。これに対し、豊井村の場合は「塩製秘録」に「浜至極の上土地、塩売場筑後柳川御領塩座豊井塩に限る、此外は山陰売多し」と、筑後柳河藩と山陰に販路をもっていたことが記されている。豊井浜以外の浜については記述されていないが、ただ、一八二二年(文政五)鳥取藩で賀露廻船に防州下松、平田からの御用塩一二万俵の積下しを命じており(『日本塩業大系』)、平田浜からも鳥取方面へ送られたのは確かである。それに、明治期にも下松塩(下松湾内塩田産出の塩をすべて下松塩と称した)はもっぱら九州と山陰方面へ出荷されているところからみて、この両地域が近世から下松塩の主たる販路であったと考えてよかろう。
表6 塩の値段と販売先(平田開作村) |
売捌地 | 売捌高 | 売捌代銀 |
石斗 | 貫 匁 分 | |
藩 外 | 8,837.2 | 73.643.3 |
藩 内 | 3,672.0 | 30.600.0 |
計 | 12,509.2 | 104.243.3 |
『注進案』より作成 |
では、これらの地方のどのあたりへ、どのような方法で下松塩が送られていたのか、もう少し具体的には分からないであろうか。明治末期の史料であるが、三田尻塩務局下松出張所の報告を載せた『大日本塩業全書』には、この点を検討するうえで、ある程度参考になる記述があるのでその一部をつぎに掲げておこう。
A 着荷地ニ於ケル諸掛費用
九升俵 肥前国島原港売買高百分ノ三ヲ支払フモノトス
同長崎港売買高百分ノ五ヲ支払フモノトス
同大川港売買俵数百俵三十銭支払フモノトス
一斗四升俵 但馬売買高百分ノ三ヲ支払フモノトス
米子売買高百分ノ五ヲ支払フモノトス
伯耆国(米子ヲ除ク)同百分ノ三ヲ支払フモノトス
B 取引先ノ大部分ハ九州筑後若津港ナレトモ近年門司ニ陸揚シ汽車便ニ依ルモノアリ、其需要地ハ久留米付近トス、又肥前島原ニ送ルモノハ五島其他ノ需要ナリ、販路ハ産額ノ七八分ハ九州ニシテ其他ノ多数ハ因伯地方ナリ、九州送リハ三池炭買入船カ買入送ルモノ多シ、因伯ヨリ来ルモノハ多ク合ノ子船ニシテ積載品ナシ、多分ハ馬関若クハ門司等ニ陸揚シ空船ニテ当地ニ回シ塩ヲ積ムモノナリ、筑後山門郡下ノ瀬ヨリ五百石位ノ船ニ石炭ヲ積ミ当地ニ入津シ其返リニ塩ヲ買入ルヽモノアリ、九州ハ九升俵トシテ九升一合、因伯ハ一斗三升六合、外注文ニヨリ二斗五升又ハ一斗五升等アリ、俵装ハ買主ノ注文ニ依リ製造者ニ於テ負担セリ
すでに鉄道便もあったが、塩の輸送はまだ大半を帆船によって行い、また製造方法、規模とも近世とほとんど変わっていない時期の記録だけに、右の引用には近世と同じ状況を伝える部分も少なくないにちがいない。したがって、おそらく近世も主として右に地名があがっている地点を中心に、おおむねそこに記述されたような方法で出荷されていたのではなかろうか。
ただ、右の引用には山陰地方の陸揚地が記されていないが、これは因幡の賀露港で、鳥取藩では、材木や板類を積み込んで馬関方面へ出向いた船が、その帰り荷物として三田尻、下松等で買い積んだ塩をここで陸揚げし、塩問屋ないし藩直営の塩方役所を介して領内に配送していたという(『日本塩業史』)。
下松塩は、鳥取藩では格別高く評価されていたようで、
因州ノ領主ヨリ御用塩ト称シ、領内ノ費消高ヲ見積リ、毎年吏員ヲ派遣シ塩ノ買入ヲ為シ、塩質ノ佳ナルモノニハ特ニ墨付ヲ与エテ奨励セシ例少カラスト云フ、現今ニ至ルモ因伯地方へ輸出スルモノ多キハ此由緒ニ拠レリ
と前記下松出張所の報告書も記している。
下松塩は、以上のように九州と因伯方面を主な販路としていたが、さらにそれ以外の地方にも送られていた。たとえば、越前三国湊へ入荷していた防長塩の中に、三田尻・小松・竪か浜とともに下松の名が見え、また関東方面へ一部販売先をもっていた防長塩田の中にも三田尻・岩国・徳山・柳井とならんで下松が記されている(『日本塩業大系』)。したがって、下松塩の販路は九州から関東にまで広がっていたとみてよいのである。