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塩業による資産家

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 瀬戸内塩業の隆盛とともに、これによって莫大な財をなした塩業家は多い。大島郡小松で代々塩業を営んだ矢田部家もその一例であるが、この矢田部家の当主善兵衛は、塩業の利の大きさを強調し、万一火災にあっても酒造場のように焼失することもなく、「彼是田舎にては禄の最上」で、大坂では金たまり次第、大名へ貸付けて金の置場とし、北国ではたまり次第大船を造って金の置場とし、周防においては「たまり次第塩浜を買求、金之置場トス故、大坂、北国、周防ニは諸国ニ抽テ金持分限多有之由候事」とまで言っている(「塩浜之由来並ニ御借上之記」『防長塩業史料集』)。いささか誇張した表現があるにしても、塩業が周防の代表的産業で、これによって大資産家になった者が多かったことが察せられる。
 下松でも豊井の宮洲屋(磯部)、西市の林家や倭屋、塩問屋であった大呑丁の古谷家等をはじめ塩業によって繁栄した家は多く、その中でも最も規模の大きかったのは宮洲屋であった。宮洲屋については元町西浄西寺墓地の石碑に「磯部家縁起」と題してつぎのように記されている。
   磯部家縁起
磯部家はその始祖を遠く南北朝時代以前の菅原氏にまで遡ることが出来る。天正六年、争乱を逃れて宗安はその子常安を伴い此地に身を寄せ、下松屋磯部の初代となる。常安は出家して是頓と号し浄西寺の開基となった。下松屋五代時増は元禄十五年東豊井の地を開墾、塩業を興し、自ら宮の洲屋と名乗る。宮の洲屋はその後大豪商となり、藩主毛利公へ御用金を提供し、藩札を発行、阿部、矢田部と共に周防の三部として全国長者番付に載る程となった。下松屋、宮の洲屋、播磨屋(分家)の磯部一族の墳墓を改葬するに当り、その繁栄と遺徳を讃えんが為に茲に縁起を記す、

 右の縁起が端的に物語るように、宮洲屋は播磨屋とともに下松屋からの分家で、主として下松屋は海運業、宮洲屋は塩業、播磨屋は材木業を営み、すでに述べたように(第五章、2)、それぞれに豪邸を構え、なかでも最も繁栄したのは宮洲屋であった。
 宮洲屋は、一七一五年(正徳五)、下松屋五代時増が家督を長男に譲り、次男とともに分家して興した家で、これよりさき一七〇三年(元禄十六)に宮ノ洲に一二町余の塩田を開いたのを皮切りに東豊井沿岸一帯につぎつぎに塩田を造成して一大塩田地主に成長していった。宮洲屋の塩田所有形態や経営内容については分からないが、しかし、「塩製秘録」には豊井沿岸の塩田二三軒はすべて「磯部喜和右衛門様御給領」と記されている。また、一八八二年(明治十五)の「防長塩田台帳」(『防府史料第二十九集』)では豊井浜一五戸一一町九反一四歩がすべて磯部敏祐の所有となっており、その規模は防長の塩田地主のなかでも群を抜いて大きかった。
 「磯部家文書」には、一八〇三年(享和三)と一四年(文化十一)に徳山藩藩主が宮洲屋の邸宅覧海軒を訪れたことや、一七九六年(寛政八)銀六〇貫目、一八〇二年(享和二)に銀八〇貫目、三二年(天保三)銀二〇〇貫目、六八年(明治元)に金二〇〇〇両を藩へ献納したこと、また藩が六九年金三〇〇〇両を宮洲屋から借用したことなどが記されている。これらの記事からだけでも宮洲屋が徳山藩の財政維持に非常に大きくかかわっていたことが理解できる。宮洲屋の長者ぶりは、周防においてだけでなく、広く西日本一帯に知れわたっていたようで、一八一七年(文化一四)に刊行された長者番付にも、周防でただ一人磯部義助が西方前頭十八枚目に名を連ねている。
 これほどの長者であれば、徳山藩がその財政再建を宮洲屋の財力に依存したのも当然で、徳山藩では、幕末における藩札発行やその他の資金ぐりを宮洲屋の融資に頼ることが多かった。そして、藩財政との関係に過剰に力を入れたことが、宮洲屋が維新直後に急速に経営不振に陥り、塩田を手放す最大の要因となったのであった。

浄西寺境内にある磯部家の墓


諸国大福帳三津分限帳(国文学研究資料館蔵)