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下松漁場の特色

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 周防東部の主な漁浦としては、大島郡久賀、同安下庄、熊毛郡室津、同上関、同室積、都濃郡櫛ケ浜(以上本藩領)、都濃郡下松、同福川、佐波郡富海(以上徳山藩領)等があり、これらは藩公認の漁浦で本浦(立浦)と呼ばれた。これに対し、その他の諸浦は本浦に所属する端浦(枝浦)として扱われた。漁民の貢租は本浦単位で課せられ、端浦は本浦の請石(うけこく)の一部を負担額として本浦を通して上納するのが一般的形態であった。
 漁業権は、各浦において貢租を負担する漁民のみに認められたが、それも貢租負担の度合いに応じて権利にちがいがあり、一律ではなかった。また、各浦の漁業権のおよぶ範囲は、磯は根付で、その浦のみに権利があったが、沖は入合(いりあい)(相)で、いくつかの本浦が、基本的に対等の資格で漁業権を共有していた。たとえば、本藩領の場合、笠戸島から上関近海までは、室津、室積、上関の三本浦の受持海面であり、その海面を分割して牛島、馬島その他の端浦の海面があった。そしてこの三本浦は、熊毛郡近海のほとんどを入会区域としていた(『平生町史』)。
 「小嶋家文書」によると、下松浦は福川浦とともに徳山藩内の本浦で、東は屋代島、上関、室積から西は三田尻までの間は「諸漁勝手次第」とあり、入会となっていたらしい。しかし下松浦は、地先の笠戸浦をはじめ大島、粭島、馬島等の好漁場が近くにあるため、これらの海域を主な漁場としていた。その中の笠戸浦は下松浦の端浦であったが、その笠戸浦の漁業権のおよぶ範囲は熊毛郡水無瀬から佐波郡富海五ツ嶋までであった(『注進案』)。
 一般に本浦は、端浦より多くの海上石(かいじょうこく)(漁業に課せられた租税)を負担することから、端浦に対しては万事に優越的態度でのぞむことが多く、一番網は端浦が本浦に譲る慣習があった。しかし、本浦-端浦の関係といい、本浦相互の関係といい、これはあくまで古くからの慣行として成り立っていたものを継承したのであり、地域により、時代によりさまざまな違いがあり、決して一律ではなかった。たとえば、いくつかの本浦同士で入合漁業が取り決められていても、鯔(ぼら)網の網代(あじろ)は特定の浦だけに使用権があって、他の浦には認められない場合もあった。このように地域間の独自の慣行が作用すると同時に、また貢租負担の大小がからんで制度化されているため、漁場権の問題で本浦同士、あるいは本浦・端浦間の紛争は絶えなかった。とくに下松の場合、漁業をしていたのは豊井村の下松浦と末武下村の笠戸島(深浦島)の二地区だけで、下松浦が本浦、笠戸島がその端浦であったが、前者が徳山領、後者が本藩領に属して、本浦と端浦とで藩を異にしていたため一段と紛糾する要素が強かった。そもそも本藩領と徳山藩とが複雑に入り組んでいるだけでも争論が起りやすいうえに、本浦が小藩、端浦が大藩に属しているだけに、他地域以上に近世初期から多くの問題をはらんでいたのである。
 しかし、徳山・下松沖には好漁場が多く、漁業は活況を呈し、漁民の生活もしだいに向上していった。相次ぐ漁場争論も、一つには新興漁民の生産意欲の向上と権利意識の成長のあらわれでもあったといえよう。