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漁業の形態

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表7 下松浦における船の種類と艘数
種 類艘 数大きさ備 考
石  艘
いさば船2470 1
60 1
50 1
40 4
35 1
30 4
25 3
20 9
漁 船618内6艘は網船
小漁船14
「御領内町方目安」より作成。

一七四一年(寛保元)書き上げの徳山藩「御領内町方目安」によると、下松浦の船数、種類は表7のとおりである。いさば船は、薪や塩を輸送する廻船であったので、漁業に従事していたのはこれ以外の漁船六一艘と小漁船一四艘である。また、網についてはつぎのように記している。
  一、打張網一帖 但冬網、尤鯔(ぼら)網也、
  一、ねり網二帖 但右同断、
  一、敷網二帖 但鯔網、尤春網也、
  一、かせ網六帖 但春網也、
  一、手くり網三帖 但夏秋網也、
  一、鰶子(つたせ)網五帖 但右同断、
  一、くり網一帖 但右同断、
  一、漕網二帖 但秋網也、
  一、鰯(いわし)網三帖 但夏冬網也、
  一、はたら網一帖 但秋網也、

 右の記事から、鯔と鰯を漁獲していたことは分るが、他のどのような魚種をとっていたか、網の種類から推測できないであろうか。一八一八年(文政元)、福川漁民が藩役人の質問に対して答弁した「福川浦御尋諸漁名目」(『徳山市史史料』中)によると、当地では、がぜ網は主として磯辺のめばる、たなご、蛸、えびの類を、手ぐり網はがぜ網より少々網目が大きく、藻のない沖合いでかれい、こち、このしろの類を、鰶子(つたせ)網はこのしろを、くり網は鯔、𩹉(いな)、はまち、このしろの類を、漕網は長さ九尺余の小棹に結びつけた糸袋網を船で曳いて磯辺の生海鼠(なまこ)類を、ばたら網は深さ三尺、横一間、竪一尺の縄網に重い石をつけ船で曳いて生海鼠類をとっていたという。以上のような網の機能からいって、下松浦ではおおむね右にあげたような種類の魚を多くとったとみてよかろう。
 一方、本藩領の笠戸浦についてみると、ここには七二艘の船があり、うち二六〇石積の廻船一艘と笠戸瀬戸渡し船の一艘を除く七〇艘が漁船であった。漁船による年間売上高は、平均一艘につき銀二一〇匁で、計銀一四貫七〇〇匁。このうち、七〇艘分の諸雑用費が一艘につき銀九八匁で、計六貫八六〇匁。売上高からこの額を引いた七貫八四〇匁が漁民の手元に入る収益金であったが(『注進案』)、この中から後述するような種々の税を負担せねばならなかった。
 笠戸浦の場合、近世の漁種、漁法、漁期についての記録がないので、明治時代の史料を掲げておこう(表8)。明治に入って、漁法は変化したものも少なくないであろうが、しかし、漁種と操業期間は近世とこの表の時点とで大差はなかったといってよかろう。この表や「町方目安」の記事からだけでも、下松近海で多様な漁業が行われていたことが推測される。そのなかでも、近世この海域で最も大規模に行われていたのは鯔(ぼら)漁で、その先鞭をつけたのは小嶋宗兵衛であった。
表8 笠戸島の漁業状況
漁 法漁  種漁業期間
一本釣メバル12月~翌年5月
 〃スズキ周年
 〃ハマチ8月~12月
 〃タイ  〃
 〃エソ6月~12月
 〃カレイ2月~4月、7月~10月
 〃サバ5月~10月
瀬釣
(一名カカリ釣)
ハマチ、チヌ、スズキ、タイ、メバル、黒魚、サバ、タナゴ、アヂ、メイボー、モグシ周年
寄魚漁法
(一名付魚)
ボラ、チヌ、スズキ、イナ11月~翌年4月
壺魚壺縄タコ周年
立網コチ、メバル、カレイ、モサ、グチ、黒魚 〃
立廻し網ボラ、チヌ、スズキ、イナ11月~翌年4月
練り網ボラ、チヌ、スズキ、イナ周年
待網ヤハギ、カレイ、アナゴ10月~12月
鯛網タイ、サバ4月~10月
四つ長網タイ、サバ 〃
ゴチ網タイ 〃
鰕漕網赤エビ周年
鰕桁漕網藻エビ8月~翌年5月
貝桁鳥貝、イタラ貝1月~7月
「山口県専用漁業免許願」(明治37年;山口県文書館蔵)より作成。