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下松漁業と小嶋家

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 近世下松漁業は、十七世紀初期に紀伊から鯔漁の技法を導入して成功した小嶋家を中心に展開した。
 小嶋家は、土佐の豪族長曽我部氏の出という。長曽我部家は、盛親が関ケ原の役に石田三成に荷担したため封を奪われ、さらに大坂の陣で敗北して滅亡した。盛親の子の孫作は、父の死後、姓を小嶋、名を惣兵衛と改め、豊前小倉、伊予今治を経て長門奈古村に移り住み、のち下松に来て藩主毛利就隆の庇護を受けるに至ったと伝える(「小嶋家系」)。そして、藩の御用商人的特権を有してきた惣兵衛が鯔網による操業をはじめたのが、近世下松漁業発展の出発点であった。
 「小嶋家文書」の中には多数の漁業関係史料があり、また、これを詳しく分析した関係論文が発表されている(小山良昌「徳山領下松浦における鯔網代の動向」『山口県文書館研究紀要』第6号)。そこで、この両者によりながら、近世下松漁業の動向について検討してみよう。
 小嶋惣兵衛と下松浦漁民との関係を示す最初の史料は、一六二〇年(元和六)に藩が惣兵衛に、東洲崎の弁才天社建立について許可を与えた文書で、それによると「漁猟繁栄」のため弁才天建立を願い出ており、この時期すでに惣兵衛が漁民を代表する地位にいたことがうかがわれる。
 毛利就隆が江戸から帰国して下松館邸へ入ったのが一六三八年(寛永十五)で、その五年後に惣兵衛は早くも下松浦諸問屋株御免の奉書を受けているが、それはすでに漁業において発揮していた経済的実績が評価されていたからであろう。
 この惣兵衛が鯔漁に取り組みはじめたのは一六五〇年(慶安三)からで、紀伊岩佐(和歌山県有田郡湯浅町)から商売で下って来た者から新改良の打張網による鯔漁を勧められたのがきっかけであった。しかし、打張網は仕立てに多額の経費がかかるうえ、普通、一網に漁船二〇~三〇艘、漁師四、五〇人を要する大規模なものであるため、惣兵衛は最初共同出費によってこれを行おうとして領内網元に相談している。ところが「鯔と申ものは少し物音仕候てもちりちりに罷成取不申ものニて候条、望ミ無之候間御手前壱人ニて取立候へ」といって、賛成が得られなかった。そこで、結局、後年高収益をあげるようになったときに、この改良網の手立てを見習って鯔漁をすると言い出しても、それは認めないと網元に宣言して、自力で岩佐から網大工八人を招いて網を仕立て、操漁に入った。
 惣兵衛がはじめた鯔漁は、しばらくは苦しい時期が続いたが、やがてしだいに好転したようである。それは、当初、どれほど小嶋家の改良網が成功しても、決してそれを見習って鯔網の仕立てをするようなことはしないと言っていた地元の漁民が、小嶋家による改良網(打張網)の独占に反対し、地下人七、八十人連署で打張網の新規仕立願いを出していることからもうかがわれる。
 地元漁民のこのような、前言と矛盾する動きに対し、惣兵衛は、小嶋家が下松浦の漁民を多数雇用していることや、地軒銀、浮役銀、船役銀等を公納し、浦、公儀双方のために役立っていることを強調してこれを押えようとした。そのため、小嶋家と下松漁民との対立が激化するように思えたが、最終的には漁民側が折れて、一六七八年(延宝六)惣兵衛の子助之丞宛に口上書を提出し、小嶋家が漁民を網子として雇用してくれていることに感謝して、①同家に無断で鯔網の仕立てをしないこと、②他からいかほどの金銀をもって雇用を申し込まれても同家の了解なしには応じないこと、③同家を「永代当浦漁人頭取」とすることなどを約束した。
 この口上書を受けた助之丞は、これに浦役人の同意書を添えて藩府へ提出した。藩もこれを了承し、ここに小嶋家による徳山領内における打張網鯔漁の独占権が認められ、小嶋家単独の鯔網経営が以後長く展開するかにみえた。