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小嶋家独占への抵抗

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 しかし、民衆の生産意欲と行動力が急速に高まってきた十八世紀以降の社会にあって、小嶋家による鯔漁の独占を保証した藩府発行の一片の文書が長く効力を維持することは困難であった。とりわけ、本藩領と徳山領とが輻輳し、しかも前者に対して劣勢になりがちな後者の海域を漁場とするだけに、徳山藩によって承認された特権をふみにじる行為は頻繁に起こり、小嶋家の経営は決して安定的なものではなかった。
 たとえば、小嶋家の打張網による鯔漁独占経営を藩が承認した七八年の翌年には、早くも徳山領富海浦漁人がくり網を鯔網に縫い直し、追込み網にして大津島付近で鯔操業をしている。これは、助之丞が町奉行へ訴えて差し止めさせたが、八三年(天和三)には、本藩領室積浦より代官を通して、下松浦、室積浦間の鯔網代を互いに入会とするよう申し出がなされた。これも、徳山領では鯔漁のみは例外的に入会でないことを主張して、この要求を一応退けた。
 しかし、独占反対の声はしだいに強まり、これを拒否することは困難で、八五年(貞享二)にはついに下松浦眼前の笠戸島沖において入会を強いられることとなった。元来、笠戸島は本藩領でありながら下松浦の端浦ということで、笠戸島沿岸の網代は慣行的に本浦たる下松浦の所有とされていた。そこへ笠戸島の守田伝右衛門が打張網を仕立てたことから、笠戸と下松浦との間で紛議を生じたのが発端となって、結局、八七年(貞享四)、両藩役人の会談の結果、笠戸島および相島(大島)における打張網は入会ということになってしまった。しかも、それだけならまだしも、笠戸側は、この事件を機に、笠戸・相島近海だけでなく、これまで下松浦の鯔漁場とされていた大津島・馬島もすべて入会網代として鯔漁を行うことを主張しはじめた。これは、下松浦の端浦だった笠戸島が旧来の慣行を無視して本浦なみになろうとする動きのあらわれで、小嶋家だけでなく、下松浦としても承服できないものであった。助之丞はこの要求阻止に懸命に努め、町年寄を通して町奉行へ依頼し、かろうじて大島・笠戸島・漁が縁(宮洲東部)までのあいだだけを両浦共有の網代場と定め、それを両浦が半分ずつ当番を定めて操業することとなった。しかし、笠戸島が実際に鯔漁を行ったのは短期間のことで、やがて網代を他浦漁人へ賃貸する「請網代(うけあじろ)」を行うようになった。すなわち、九一年(元禄四)から一〇カ年間は室積浦へ、ついで一七〇一年から五年間は下松浦の小嶋家へと交互に請網代としている。元禄十四年正月二十二日付の末武下村浅海長兵衛、田中三郎左衛門両人より小嶋惣兵衛、助之丞宛の書状によると、このとき小嶋家は立銀として一五カ年分三貫一五〇匁を笠戸側へ納めることが条件となっている。打張網による鯔漁の独占権をもっていたはずの小嶋家が、眼前の海でこのように網代場代を払って操業するという屈辱的事態に陥ってしまったのである。したがって、十八世紀初頭にはすでに、小嶋家が最初に考えていたのとは大きく異なるかたちの操業となったが、ただ、打張網による鯔漁は莫大な経費を要することから、笠戸島側が請網代による収益をはかり、実際には小嶋家一手による鯔漁が、ともかくもその後も続けられたのであった。
 しかし、打張網、敷網以外の鯔漁は「浦中諸人渡世のため」として、小嶋家が納得した場合に限って、藩は下松浦漁民に許可した。そこで、やがて近世後期になると、小規模経営の可能なねり網が下松浦漁民のあいだで盛んになっていった。このねり網は、六人乗りの船二艘が一組になって磯辺や瀬に網を張り、竹竿二本で海面をたたいて魚を網に追い込む漁法であった。打張網や敷網に比べてはるかに経費もかからない小網であったため、一般漁民にはとっつきやすかったのであろう。
 ところが、このねり網の数が増えてくると、やがてこれが打張網に大きな被害を与えることとなった。それは、ねり網の場合、付(着)魚(付鯔(つけぼら)ともいい、鯔が旧十一月から翌年二月ころまで群集して溜りにいること)を竹竿でたたくために、鯔が四散してしまうからで、一八五七年(安政四)、小嶋惣右衛門はこれを禁止するよう藩に願い出た。この願いが聞き入れられて、ねり網がいったん禁止となった。しかし、今度はねり網を使用していた連中が承服せず、十一月から二月の間の着魚のシーズンは差し控えるが、それ以外の三月から十一月までの間はねり網操漁をすることを主張し、その許可を小嶋家から藩へ申し込むよう要求した。このため、小嶋家もやむなくそれに従い、藩へこの旨を一八六九年(明治二)に上申した。その結果は分からないが、おそらく文句なくこれは認められたことであろう。
 以上のように、笠戸島近海における小嶋家の鯔漁は、本藩領と配下の漁民の双方から多くの抵抗を受け、幾多の曲折を経ながらも、なんとか幕末まで一応、特権を保持しながら操業を続けたのであった。これは、初期以来の徳山藩の手厚い保護があったからにほかならない。しかし、それだけに、廃藩後の小嶋家の痛手は大きいものがあった。