すでにみてきたように、小嶋家の鯔漁における特権に対してはさまざまなかたちで不満が噴き出していたが、藩の崩壊とともにそれは一段と顕著になり、小嶋家は窮地に立たされることとなる。そして明治、大正、昭和と多年にわたって小嶋家は近村漁民や企業を相手に漁場権をめぐる裁判闘争をくり返した。その都度、小嶋家からは、初代以来の書類を持ち出して論じたが、結果はことごとく小嶋家に不利なものであった。もはや、藩主から保証された特権も慣行も、近代法の前には無力をさらすだけだったのである。しかし、それにも屈せず、最終的には昭和初期の日本石油株式会社との訴訟まで争い続けた。「小嶋家文書」には、これらの裁判関係史料が多いが、左記の史料は一八八三年(明治十六)、大島村漁人との裁判のさいに提出した書類である。近代の事件ではあるが、近世からの小嶋家の鯔漁独占経営に関して起こった訴訟であり、小嶋家の言い分を理解するのに好都合な史料なので、以下に引用しておこう。
鰡網々代御免許之儀ニ付請願書
私儀従来本県本郡大島村巡リ春鰡敷網、冬打張網之網代、同郡粭島々巡リ冬鰡打張網代、同郡東豊井村字魚ケ縁リ巡リ冬ノ鰡打張網代、同郡大津島島之巡リ冬之鰡打張網代等ニ於テ鰡漁業仕来リタル原因ハ、私先祖惣右エ門ナル者浦民意外ノ困難ニ陥ルヲ憂ヒ種々思慮仕居候折柄承応貳年紀州岩佐ト申所ニ鰡網漁ノ良法アル事ヲ聞キ彼ノ浦ヨリ網細工ヲ雇入レ其良法ヲ用ユル事ヲ初テ発明シ爾来今日ニ至ルモ依然其法ヲ用ユル事ヲ前書ノ場所ニ於テシ、亦私ヲ除ノ外該網代ニ於テ此網ヲ以テ鰡漁ヲナス者無ク、他ニ該漁ノ免許ヲ得タル者無キハ別紙第一号乃至第四号証書ニ依テ明瞭タリ、茲ニ於テ数百年ノ慣行成跡アルヲ以テ御一新ノ後モ第五号証ノ如ク御許可ヲ得タリ、然リ而シテ明治十三年八月十三日附県庁甲第九拾八号御布達ニ拠ルモ従来ノ慣行ヲ以テ御許可相成ハ言ヲ俟ザル儀モ有之、然ルニ明治十五年県庁甲第四拾号ヲ以テ漁業鑑札更生ノ儀御布達相成、続テ明治十五年五月廿六日附ヲ以テ本郡地方税科ヨリ本村々長ヘ照会書ノ旨ニ因リ私所有之網代有之村島漁人総代戸長ノ調印ヲ以テ御鑑札御引換ノ事ヲ出願セント大島村漁人惣代ヘ調印ヲ促シ候得ハ無故苦情ヲ唱ヘ之ヲ拒ミ(中略)夫レガ為メ御鑑札御引換出願ノ路ヲ失スルトキハ私ハ勿論下松浦漁人数拾戸ノ住民数百戸ノ者共活路ヲ失ヒ凍餓眼前ノ儀ニ有之候、且該網漁ノ本県内ニ於テ普及セシ原因ニ於ルモ響キニ陳述スル所ノ我ガ先祖惣右衛門ガ紀州ヨリ伝習ヲ受タルノ致ス所ニ有之、今日漁人ノ幸福ヲ得ル事ハ枚挙ニ遑アラス、爰ニ於テ其寸効ト下松浦漁人ノ困苦トヲ御洞察被為在特別ノ御詮儀ヲ以テ(後略)、
右の傍点部にみずから述べているように、小嶋家の鯔漁が下松漁民の生活と深くかかわっていたことは事実である。が、同時に小嶋家は、一八三四年(天保五)に藩札発行にあたって金五〇両を献納したのをはじめ、徳山藩の財政援助に大きな富力となった家筋で、そのために諸問屋御免(一六二一年)、下松御茶屋払受け(一六五六年)、永名字御免(一七一五年)、永代年寄格御免(一八三四年)等を受けている。こうした藩との結びつきの強さが、多年にわたる小嶋家の特権維持を可能にした最大要因であった。そのため、逆に藩の後楯をなくした後の小嶋家は孤立無援の状態に陥り、「数百年ノ慣行」を主張しても受け入れられず、小嶋家にとって裁判闘争は不本意な結果になってしまった。もはやかつての小嶋家の歴史を知る人も少なくなったが、しかし、右の裁判史料を引用するまでもなく、小嶋家が下松漁業の発展に尽した功績は、すこぶる大きいものがあった。