徳山藩内の打張、敷網以外の鯔漁や、端浦である笠戸島における鯔以外の漁業権はどうなっていたのであろうか。ここでもまた、入会権にまつわる複雑な問題がつぎつぎに起こり、紛争は絶えなかった。元来、鯔漁の打張網や敷網は、「鯔網之儀ハ鯨つき鯨網ニ相次手之大網ニて御座候」(享保八年)(一七二三)とあるように大量の人数(四、五十人)と船(四、五十艘)を要する大網であった。このため、網代はどこの浦においても特定の網元にのみ漁業権が認められていた。ところが、小網が発達し、それによる鯔漁が盛んになると新しい問題が生じてくる。下松浦漁民のあいだでねり網がさかんに使用されるようになり、それが小嶋家の打張、敷網を妨げることから両者のあいだで紛糾したことは先に述べたが、下松浦の漁人同士の争いはまだ解決しやすかった。しかし、他浦の場合はそう簡単にはいかなかった。
たとえば、元禄年間(一六八八~一七〇三年)福川浦では、馬島近海においてくり網で鯔を取ったところ、小嶋助之丞は、父惣兵衛の打張網輸入のとき以来、鯔網代の特権を得ていることを述べ、「助之丞網之儀御領分何れの浦ニても自由ニ鰡取申儀何も御存知候」と、鯔に関しては小嶋家の独占が認められていることを主張して、福川浦の不法行為を非難した。これに対し福川浦は、くり網のような小網の使用まで禁ずることの不当性を申し立てて、中止しようとはしなかった。ここには、同じ徳山藩の本浦であるにもかかわらず、下松浦(小嶋家)のみを優遇している藩の方針に対する福川浦の強い批判の姿勢がみられる。助之丞はこれに対し、諸猟は入会であるが、付鯔の網代は小嶋家に決っており、四〇年余も妨げがなかった、と言い張って譲らなかった。これがどう決着したかは分からないが、時代が経つにつれしだいに小嶋家の主張は実質的に崩れていったことは確かである。たとえば、一八一八年(文政元)、徳山藩から鯔網について質問を受けた福川漁民が「当浦ニおいてハ鰡上り下リ之儀ハ気を付不申、瀬付又は遊び鰡見付次第操網ニて巻取ニ仕候、気候之差別ハ無御座候、下松辺と違、鰡網と限候網ハ無御座候」(「福川浦江御尋諸漁名目」『徳山市史史料』中)と答えているのも、小嶋家が何と主張しようと福川浦ではくり網による鯔漁が正々堂々行われていたことを示すものといえよう。
ところで、下松浦の端浦である笠戸島で、小嶋家による打張網の独占体制がしだいに解体していったことはすでに述べたが、では、この地域での鯔以外の漁業において、本浦との関係はどうなったのであろうか。
笠戸島が本藩領でありながら下松浦の端浦であるために、従来から下松浦漁民はこの海域を自分の海のごとき感覚で操業していた。しかるに一七六一年(宝暦十一)四月、鰯網を行っているところへ、笠戸島番所役人の家来三人が突然押し寄せ「網引寄せ磯辺えかけ網切はなし、漁事妨ケ仕」という事件が発生した。そして彼らは、今後鰯網に限らず徳山領漁船の笠戸島沿岸での操漁を禁止する旨を伝えた。これは下松浦にとって、端浦を完全に失うきわめて深刻な問題で、その後、この要求を撤回させるよう長年月をかけて交渉し、一八〇八年(文化五)ようやく末武下村と下松町のあいだに協定が成立した。それによると、鰯網は峠ノ浦(深浦)の一カ所のみ西市、深浦(笠戸)が一番網を入れる権利を有し、その他のところでは従来どおり本藩、徳山領の区別なくくじ引きで一番網を決め、入会操漁をすると定められた。
このようにして、笠戸島沿岸での下松浦の漁業権はかろうじて保たれはしたが、端浦に対する権利がしだいに弱まっていったことは否めないところであった。一方、それは笠戸側にとっては一歩前進であった。特に峠ノ浦一カ所とはいえ、一番網を入れるということは、本浦なみの権利を部分的ではあるが獲得したことであり、これは、下松浦の端浦的立場から自立しようとする笠戸島漁民の多年にわたる運動の一つの成果であったといえよう。これを可能にしたのは、本藩-支藩の力関係の利用も否定できないが、小嶋家の大網(打張網、敷網)主導の下松浦漁業に抗して小網による漁業を発展させた笠戸漁民の実績と自信によるところが大きいであろう。