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漁民の貢租負担

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 漁村の負担する主な貢租としては、名称は一律ではないが、浦屋敷銀、海上役銀、浦浮役銀、水主役銀などがある。浦屋敷銀は漁村の宅地にかけられる地料、海上役銀は漁業権のおよぶ海面に対する税、浦浮役銀は慣行漁業権や網代に対する税、水主役銀は公儀役人通船のさいの水主役負担ができないときに課せられる税である。このうち、前三者は、それぞれ石貫銀(こくかんぎん)といい、一石につき銀一〇匁の比率で代銀納した。たとえば、『注進案』によると、末武下村の場合、海上石として一三石三斗八升六合、浦屋敷石として五六石五斗七升四合があがっているが、実際には米をこれだけ上納するのではなく、海上役銀として銀一三三匁八分六厘、浦屋敷銀として五六五匁七分四厘を納めたのであった。また、笠戸浦釣役銀として三五匁納めているが、これは後述する農家の門役銀(第七章、2)のように漁業権に軒役としてかけられたのであろう。浦役銀はここには見えない。
 笠戸島浦は下松浦の端浦であったため、本来なら貢租は本浦の下松浦が納入し、その一部を笠戸浦が負担するはずであるが、下松浦が徳山領であるため、笠戸島浦の所属していた末武下村が納めていた。なお、右の負担とは別に、笠戸島漁民は公儀役人通船のときの護送の義務があり、そのための番所もあったが、水主役銀は記されていない。その分担海域は「下ハ徳山御領粭島迄、上ハ室積まで」(『注進案』)であった。
 これに対し下松浦の場合、「御領内町方目安」に浦役銀七五一匁七分五厘、魚役銀五六匁があがっているにすぎない。このほかに下札数三〇〇枚分銀二貫二一八匁四分二厘、夫銀三匁二分が記されているが、そのうちのどれだけが漁民に関係あるものか分からない。
 これ以外は、断片的史料から部分的に運上銀の額を知ることができる程度である。運上銀は、営業の免許に対し、利益の一部を税として納めるもので、たとえば一七七二年(明和九)、小嶋惣右衛門は鯔網代を再開したとき、毎年の運上銀として銀三〇匁を上納することを条件にこれを許されている(「小嶋家文書」)。また、一八一九年(文政二)、惣右衛門を頭取として下松町にはじめて魚糶(せり)問屋が設置されたとき、運上銀五枚が課せられている。一〇年後の二九年にはこれが銀一〇枚、さらに六八年(慶応四)肥後屋伝兵衛、和泉屋藤兵衛の魚糶問屋へ二貫五〇〇匁ずつが課せられている(「大令録」山口県文書館蔵)。魚糶問屋へ運上銀を課せられることは、これとかかわりをもつ漁撈者、小売業者の双方へ間接的に運上銀を課することであり、このようにして漁民の収入のすみずみにまでしだいに税がかけられていったのであった。しかもそれは海漁だけでなく、川漁も同じで、河内村重次郎らのはじめた切戸川の白魚梁に三〇匁、瀬戸村庄屋石津彦左衛門が瀬戸川に許可された鮎漁に一二匁の運上銀が課せられている(「大令録」文政四年(一八二一)、九年)。
 なお、右のほかに現物収取もあった。たとえば、海鼠(なまこ)の腸を除去して煮干した煎海鼠(いりこ)=きんこは中国向け輸出海産物(俵物)の重要品目の一つで、幕府は各藩に割り当ててこれを買い受けさせた。周防部、特に徳山藩の生産は抜群で、一八六六年(慶応二)の上納額は二万一六〇〇斤もあり、このうち下松浦が四四〇〇斤、小嶋惣右衛門が一二〇斤を納めている(『徳山市史』上)。他は全部、浦単位で上納しているのに、下松だけ下松浦とは別に小嶋惣右衛門個人の名で納めている。ここにも、依然として小嶋家が徳山藩漁民のなかでも別格の地位を保持していたことがうかがわれる。