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耕地と牛馬飼育

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 下松地域の村ごとの農業形態についてまとめて記された史料としては『注進案』以外にはない。したがって、本藩領(末武上、末武中、末武下、平田開作、下谷、切山の各村)についてしか知ることができないが、これによってある程度、徳山領についても推定できると思われるので、以下『注進案』によって天保年間(一八三〇~四三年)ころの状況(ただし給領地分を除く)を取りあげてみよう。
 『注進案』に記された田畠面積には屋敷地も含まれていて、実際の耕作面積とみることはできないが、各村々の相対的な比較は可能であり、それによって各村のおおよその傾向を知ることはできよう。表9はそれを示したもので、ここから、同じ下松地域でも、平野部の多い末武の各村と山間部の下谷、切山村とでは田、畠の占める比率が大きく違うことが分かる。前者では田がいずれも田畠面積の八〇パーセントをこえているが、切山村は六二パーセント、下谷村は五九パーセントにすぎない。もちろん、気候、土質、日照等の条件の違いによる点もあろうが、何よりも末武川・平田川下流域の前者の方が、山地の多い後者よりも水田化が容易であるからであることはいうまでもない。したがって、米作だけに限っていえば、前者の方が地形的にはるかに有利であったといえるが、水田化が容易な地域は、低湿地帯のために一部特定の野菜以外の畑作が不可能な地域も多く、米以外の生産物は、前者よりも後者の方が種類も多様で、生産量も多かった。すなわち、表10に示したように、山間部の村では大豆以下の豆類、蕎麦(そば)、黍(きび)等の穀類や芋類など多くの種類のものが大量に生産されており、末武川下流域の諸村とはかなり異なった農業経営が行われていたのである。
表9 耕地面積と田・畠比率(本藩領のみ)
田 (A)畠 (B)田の占める
比率
(A / A+B)
町反畝 歩町反畝 歩
末武上村123.9.6.1723.5.8.280.84
末武中村107.0.2.1117.0.5.200.86
末武下村148.7.2.0715.6.0.230.91
平田開作村 34.2.1.13 3.7.4.000.90
下谷村 72.8.9.0555.3.3.290.59
切山村 66.2.3.1739.8.2.130.62
『注進案』より作成。

表10 下松地域諸村の農産物収穫高(ただし本藩領のみ)
末武上末武中末武下平田開作切 山下 谷
石  石  石  石  石  石  
1,735.1,444.8202,176.102330.043861.838.255
石  石  石  石  石  石  
867.369538.070942.600
(小麦を含む)
64.580230.090366.250
石  石  石  石  石  
大豆38.38645.3806.128.70057.980
石  石  石  石  石  
大豆以外の豆類95.47633.50.136.00063.500
石  石  石  石  石  
蕎麦55.03044.86036.380235.200113.400
石  石  石  
40.
(粟を含む)
8.3002.500
石  
4.
石  石  石  石  石  
247.931214.047
(悪米粃)
280.800
(悪米粃)
132.400145.783
芋類7,2001661,200
大根10,3208,8007,2001,37014,93012,000
茄子1,332117498990
繰綿132
貫目
櫨実35012010012063.500
木楮70
(2,100貫)
10
(2貫500目)
1,600
(8貫640目)
梅実50
(200目)
150
(975匁)
1,200
(960目)
1,900
(1貫900目)
400
(400目)
竹の子1,000
(400目)
300
(600目)
7,200
(2貫160目)
9,500
(11貫300目)
合以下は四捨五入。( )内の数値は代銀換算値。『注進案』より作成。

 また、牛馬頭数についても、平野部諸村と山間部諸村では相違があった。それを示すのが表11で、これから分かるように、平野部諸村は山間部諸村に比べて、本百姓一軒当たりの牛馬数が非常に少ない。これは肥料の下草の関係によるものであろう。農家の牛馬利用には、耕起用、肥料採取用、運搬用などがあるが、近世の牛馬飼育の主目的は肥料採取で、厩舎に敷草を入れて牛馬に踏ませて厩肥を作り、これを田畑に施すと地力維持に効果があった。そのため牛馬の飼育が盛んに行われた。しかし、下草に恵まれない地域ではその入手に苦労し、他村の入会地へ採草に行くか、他村からこれを購入するか、または、資力のあるものは干鰯や油粕等を用いた。たとえば、末武上村では浴合で生えた草を刈取るだけでは足りないので「下草薪樵取之儀ハ下谷村之内瀧山と申所、壹里半程隔り、尚徳山御領瀬戸、譲羽両村山野立銀差出、薪下草ハ勿論牛馬之飼料、駄屋敷等も刈取ニ罷越、精力者之者ハ干鰯、油粕、糠杯相用候へとも小躬之御百姓は至て難渋仕候事」という有様だった。また、山野(さんの)(農民が共同利用する入会山)を持たない末武中村では笠戸の御立山(藩の公有林)まで行って下草を刈取り、船で積み帰っていたが、「遠方之儀ニ付、小躬之者ハ手間無之、十分ニ刈取不得仕、精力者之者ハ下草をも刈取、尚干鰯油粕等相求メ用」いていた。
表11 下松地域諸村の牛馬飼育頭数
   (ただし本藩領のみ)
村 名本百姓
1軒当り
  疋疋  
末 武1738239292680.46
末武上1738
1842 ‐
末武中1738
184294131070.48
末武下1738
1842146151610.73
平田開作1738
1842320 220.23
笠戸島1738
1842 ‐
切 山17385518 731.15
184210037137(145)1.69
下 谷1738278 350.92
1842109261351.22
1738321376
184248191572
『地下上申』、『防長風土注進案』より作成。
切山村の( )は原史料の記載。
1738年(元文3)の末武上・中・下村及び平田開作村は末武村に含まれる。
1842年(天保13)末武下村の馬数のうち6疋は駅馬。

 このように、海に近い平野部諸村では下草不足に悩まされ、富裕者は魚肥や油粕を用いた新しい農法を取り入れて一層生産力を高めていたが、資力のないものはそれもできず、肥料に限っても富農と貧農の差が増大する傾向にあった。
 これに対し、山間の村では、下草が豊富にあるうえに、魚肥は用いようにも海から遠くてままならず、もっぱら下草に頼る従来の農法を続けていた。たとえば、下谷村では、
当村山野合壁山共ニ多く、下草薪等之刈取も道程近ク自由之地ニて、鰯油かす其外之肥ハ海辺町へも遠く、昔より相用不申候事と記されており、平野部諸村とは対象的であった。
 右のような、山間部と平野部の下草利用度の違いが表11の本百姓一軒当り牛馬飼育頭数の差の生ずる大きな要因だったのであろう。ここにも、山間部と平野部の農業形態の違いがみられるが、それにしても、水田の多い平野部の方が山間部よりも牛馬の比率が低いところに、まだ牛馬を使った犁による深耕農法の普及していない当時の農業のあり方の一端が読み取れる。