『注進案』では、土地の沃地を厚地、痩地を薄地と表現し、村ごとにその割合を記している。また、村ごとに土地の総合評価や積雪量についても述べている。表12はそれをまとめたもので、この表からも平野部諸村の方が山間の村よりも米の生産に適していたと思われる。
| 土 質 | 雪 積 | 土地評価 |
厚地 | 薄地 |
| 分 | 分 | 寸 | |
末武上村 | 6 | 4 | 5~6 | 中の上 |
末武中村 | 6 | 4 | 5~6 年により7~8 | 中の中 |
末武下村 | 5 | 5 | 稀に積雪 | 中の上 |
切山村 | 3 | 7 | 7~8 年により1尺 | 中の下 |
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『注進案』より作成。平田開作村と下谷村は記載がない。 |
では、このような土地条件の平野部で、二毛作の普及度合いはどうであったか。『注進案』には米、麦二毛作が可能な田を「麦田」、水が多くて米作しかできない田を「水田」と記しているが、その両者の比率を示したのが表13である。平田開作村が最も二毛作田の比率が低いのは、開作地で低湿地が多く、「満水之節は末武郷中御蔵入悪水不残流込ミ」といった状態にあったからであろう。しかし、平田開作村以外の末武上・中・下の三村は、いずれも山間部の下谷、切山両村よりもはるかに二毛作田の比率が高い。
元来、末武平野部は湿地の多い地域であるが、それでも下谷、切山村よりも二毛作田の比率がはるかに高いのは、下谷、切山両村の田地がよほど排水、日照等の条件の悪い山陰に多く開かれたことを示唆している。『注進案』の下谷村の項に「南西山高く陰地ニて朝夕日影薄く、夏分より夜中折々冷風吹キ、秋半より寒さ発り、田作麦薄く実のり無数地合にて」(赤谷地区)、「山陰高岸多く雨年ニは浴水湧出多、陰地ニて作物之出来立不宜候」(平谷、西谷、釜柄地区)といった記述がある。このような環境のため、米、麦の二毛作もあまり普及しなかったのであろう。
表13 下松地域諸村の単作田と二毛作田の面積と比率 |
| 麦田(米、麦の二毛作田) | % | 水田(米のみの単作田) | % |
| 町 反 畝 歩 | | 町 反 畝 歩 | |
末武上村 | 86.7.0.18 | 69.9 | 37.2.5.29 | 30.1 |
末武中村 | 57.0.2.11 | 53.3 | 50.0.0.00 | 46.7 |
末武下村 | 89.2.4.07 | 63.6 | 51.1.5.04 | 36.4 |
平田開作村 | 10.7.6.11 | 32.6 | 22.2.4.02 | 67.4 |
下谷村 | 25.5.0.00 | 35.0 | 47.3.9.05 | 65.0 |
切山村 | 24.1.4.00 | 36.4 | 42.0.9.17 | 63.6 |
こうした厳しい自然条件のなかでは当然、米の反当たり収量も平野部諸村に比べて少なかったであろうと推測されるが、確かに表14に掲げたように、切山村で一・三〇石、下谷村で一・一五石と、平野部諸村よりも低い。例外的に平野部のなかでも平田開作村だけは一・〇〇石と低いが、これは塩田地帯特有の「水田汐廻等多所柄ニて反別六斗も出来候」ような土地もあったからで、このような例外を除いてはいずれも切山・下谷両村よりも反当収量が高い。これは、地形的条件だけでなく、海辺諸村では魚肥を入手しやすかったことも一つの原因であろうが、いずれにしろ、このような状態で、山間部の村では、平野部に比べて田地が少ないうえに、米の反当収量も低い農業を強いられ、その不足分を表10で見たような米以外の種々の作物によって補っていたのである。
| 現作田面積 | 米の収穫高 | 反当石高 |
| 町 反 畝 歩 | 石 | 石 |
末武上村 | 123. 9. 6.17 | 1,735,519 | 1.40 |
末武中村 | 107. 0. 2.11 | 1,444.820 | 1.35 |
末武下村 | 140. 3. 9.11 | 2,176.102 | 1.55 |
平田開作村 | 33. 0. 0.13 | 330.043 | 1.00 |
下谷村 | 72. 8. 9.05 | 838.245 | 1.15 |
切山村 | 66. 2. 3.17 | 861. 余 | 約1.30 |