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零細・錯圃形態

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 平野部と山間部の農業形態の違いに注目すると前者の方が後者よりも米の生産に有利な環境にあった。しかし、有利といったところで、表14の数字から分かるように、現在と比較すれば著しく低い生産力であった。このことは、当時の農業経営そのものが現在からみると驚くほど効率の悪い、したがって苛酷な労働を必要とするものであったことを推測せしめる。その一端をここでは耕地の規模と分散状況からみてみよう。
 表15は末武上村の一七六二年(宝暦十二)の宝暦検地のさいの小村絵図(末武北村役場文書)の中の平坦部から三つの村(ここでいう村は「穂ノ木」=小名(こな)のことで、今の小字と同じ)を任意抽出したものである。この表でまず注目されるのは、一筆の田地が数個のまち(耕地)から成り立っているが、その一まちの面積が三村とも非常に小さいことである。すなわち、三村あわせて三六筆のうち、一まち平均が四畝以上のところはわずかに三筆だけで、逆に三畝以下が一八筆もある。山間部ならともかく、平坦部でこの数値であるというのは、現在と比べて耕地単位が全般的に相当小さかったことを示している。
表15 村(=小字)別耕作面積、石高、まち数の一例
番号名請人まち数種類面積石高1まち平均面積
反 畝 歩反 畝 歩
山崎村1儀兵衛組小右衛門38.101.5482.23
2 〃  三四郎39.251.4733.09
3 〃  仲左衛門29.251.5034.27
4二郎右衛門組好之助51.7.033.0483.12
5 〃  伝左衛門33.170.6801.06
6儀兵衛組与左衛門103.2.185.6073.09
7 〃  源五郎39.061.4963.03
8二郎右衛門組茂右衛門1.040.806
9儀兵衛組法静寺1.200.019
10 〃  源五郎1.8.261.080
11二郎右衛門組茂右衛門1.040.086
12儀兵衛組九左衛門1.0.240.710
13 〃  法静寺2.050.183
14二郎右衛門組源右衛門200.046
田村1藤七組権右衛門62.4.246.5674.04
2 〃 孫四郎36.051.3242.02
3 〃 藤七47.151.2381.26
4 〃 権右衛門31.200.23318
5 〃  〃4田屋敷3.240.74126
6 〃  〃191.3.142.54520
7 〃 善右衛門39.202.1753.07
8 〃 善太郎2200.12015
9 〃 善右衛門12.250.3402.25
10 〃  〃11.050.1401.05
11 〃 権右衛門31.6.203.2895.17
西蓼原村1藤七組三右衛門21.143.22
2 〃 市十郎23.031.1371.15
3 〃 与四郎33.200.6371.07
4 〃 次郎兵衛101.9.093.9701.10
5 〃 左太右衛門41.4.092.8223.07
6儀兵衛組彦五郎102.4.163.9742.14
7 〃  〃69.041.6441.05
8藤七組忠左衛門121.6.142.7101.05
9 〃 久右衛門102.6.074.0932.19
10 〃 市十郎61.4.102.5542.12
11 〃 坂次郎113.4.236.1453.55
「末武上村小村絵図」より作成。

 このように耕地が小さく区切られていたことだけからでも当時の農業が現在の農業とかなり異なることを実感させるが、さらに小村絵図を見て驚くのは、現在と違って耕地の所有者が土地をひとつづきにまとめて所有しないで、各地に分散的に所有している場合が非常に多いことである。それは表15にも見られるところで、たとえば山崎村では一四筆のうち二筆耕地をもっているのはわずかに三人で、他はすべて一筆しか所有していない。また、西蓼原村でも二筆所有者は二人だけで他は一筆所有者である。最も多くまとまっている田村でも、五筆所有者が一人、三筆所有者が一人いるのみで、他は一筆所有者である。このように、一地域内にまとまって土地を所有せず、方々にとびとびに所有しているケースの方が圧倒的に多かった。表16はそれを具体的に示したものである。すなわち、持高七~八反程度の農民三人の耕地の所在地とまち数を示したものであるが、わずかずつ方々に広い範囲にわたって土地を所有していることが分かる。
表16 田地の分布状況
名請人所属組所在村
(=小字)
まち数面積
反 畝 歩
六郎右衛門次郎右衛門組永城院15.23
21.15
西方41.1.08
久保田51.3.00
中塚51.0.00
是光61.4.05
西垣内41.2.00
善右衛門次郎右衛門組下中嶋11.14
重岡71.0.22
35.10
上河原126
堂河内12.20
上中嶋12.00
久保田14.00
国相134.4.07
利右衛門次郎右衛門組西方38.12
51.4.12
中村41.1.07
14.00
すけ松27.15
92.8.13
重岡221
弘石59.28

 このように零細耕地が錯綜していた、零細錯圃形態が近世農業の一般的形態だったのである。それは、小家族の家族労働が労働の基本単位をなしていた当時の小農経営において、右のような耕地形態が家族労働を最も有効に利用できたからである。というのは、水稲農業では春秋二季の一時期に極端に労働が集中するが、それを小家族労働でまかなうためには、一地域に広い耕地が集中しているよりは、零細錯圃形態の方が作業時期に時間差が生じて、労働力が少しでも分散できる点で好都合であったからである。特に、牛馬耕がまだあまり普及しておらず、鍬による耕起が一般的であった当時の段階では、一つの耕地が広すぎると小家族労働だけでは一定期間内に耕起することが不可能であるが、零細錯圃であればそれができ、また、耕地が分散していれば早晩各種の品種を採用して労働時期に一層時間差をつけることも可能だったわけである。