零細錯圃形態からも推測されるように、近世の農業は近代以降に比べて生産力が非常に低いものであった。しかし、近世中期以降、農具や農業技術施設の改良、普及によって、徐々にではあるが、確実に生産力は向上していった。なかでも、近世農民が村落規模で最も力を入れて取り組んだのは灌排水のための諸施設の造成、管理と肥料の生産、確保であった。そこで、ここではこれらのうちでも近世末期の農業発展を考えるうえで特に重要と思われる用水溜池=堤と石灰の問題について、検討しておこう。
(A)溜池 溜池は干魃を乗り切るためには欠かせない施設として早くから各地に造られていた。表17は一七三一年(享保十六)の時点で、すでに存在していたことが確認できる徳山領諸村の溜池をあげたものである。各村にそれぞれすでに溜池が出来ていたことが分かるが、水不足の深刻な地域には、その後、これ以外に多くの溜池が造られていった。たとえば、傾斜地が多く、河川の少ない来巻村では、表16にはわずかに五つあるにすぎないが、一八八七年(明治二十)には四五筆(二町一反五畝)にもおよんでいる(信友明『来巻万覚之書』)。一筆平均面積は五畝弱で、小規模のものが多いが、それでも人家一二九戸、田地面積四一町八反の村でこれだけの溜池(田地面積の五パーセント強、田九反三畝弱に一つの割合)があったということは、溜池の必要度がいかに高かったかを示すものである。これらがいつごろできたものか明確には分からないが、おそらくその大半は十九世紀初期以降に造られたものであろう。というのは、徳山藩諸村の状況を記した「大令録」には十九世紀初期に新しく溜池を築造したことを伝える記述が多く見られるからである。たとえば、表18は一八一六年(文化十三年)から三九年(天保十)までの間の溜池築造に関する記述を抜き出したものである。この表だけからでも当時の下松地区の農村に溜池灌漑への期待が著しく高まり、つぎつぎに築造されていたことが理解できる。
表17 溜池一覧(1731年)
(ただし徳山領のみ) |
村 | 堤 名 | 備 考 |
西豊井村 | 大久保堤 | 治右衛門組市左衛門自分堤 |
河内村 | 畑岡堤 | 七兵衛組 七兵衛自分堤 |
北山浴堤 | 〃 又兵衛自分堤 |
迫ノ浴堤 | 〃 忠兵衛自分堤 |
生野屋村 | 大年迫堤 | |
藪口堤 |
源八田堤 |
時宗堤 |
原河内堤 |
山田村 | 後浴堤 | |
後峠堤 |
切掛堤 |
堂ノ前堤 |
来巻村 | とべつせう堤 | |
高畑堤 |
京尾堤 |
有蔵堤 |
玉蔵堤 |
温見村 | さこノ浴堤 | |
瀬戸村 | 中京堤 | |
『徳山藩毛利氏記録類纂』(山口県文書館蔵)より作成。 |
東豊井村については、嶋田村と併記されていて、どれだけが東豊井村のものか分からないので省く。 |
年 月 日 | 摘 要 |
文化13年 2月11日 | 山田村庄屋原田藤右衛門、生野屋村の無主田を受け、用水堤自立築立につき米20石貸与 |
〃 13年12月20日 | 生野屋自力堤願済 |
〃 14年 9月 5日 | 山田村原田藤右衛門、西ケ浴尻に新堤自力築立願 |
文政 1年11月29日 | 生野屋村畔頭直介組文太郎、新堤自力調願御免 |
〃 3年 3月13日 | 山田村庄屋原田藤右衛門、後浴時宗、本浴二か所へ新堤願出御免 |
〃 5年 2月21日 | 山田村平左衛門抱神ケ原畠へ堤自力築立願出御免 |
〃 5年 2月21日 | 河内村源之丞熊がいち田へ堤自力築立願出 |
〃 5年 9月11日 | 河内村にて堤二か所自力を以て願出 |
〃 5年12月 7日 | 来巻村勝二郎自力堤願出御免 |
〃 7年 2月 9日 | 生野屋村にて二か所自力堤御免 |
〃 7年11月 9日 | 生野屋村にて新堤一か所築立仰付らる |
〃 9年 4月 3日 | 山田村畔頭平左衛門組伊右衛門新堤一か所自力願御免 |
〃 9年12月16日 | 山田村畔頭弥三組助兵衛抱田地新堤願出御免 |
〃 10年 4月15日 | 山田村弥右衛門抱田地自力堤願出御免 |
天保 1年 2月15日 | 来巻村新太郎、新堤自力築調 |
〃 1年 4月13日 | 山田村久米兵衛自力堤築立 |
〃 2年 4月20日 | 山田村米賃堤一か所自力築立 |
〃 3年11月 1日 | 生野屋村清木善兵衛、谷ケ浴田へ新塘自力築立 |
〃 3年11月18日 | 山田村堂前自力堤、市右衛門願により御免 |
〃 6年 3月 8日 | 生野屋村又右衛門、堤築立、米10俵貸付にて御免 |
〃 10年 1月18日 | 河内村勇吉自力堤一か所願済 |
来巻の溜池
こうした新しい築堤は、有力百姓の出資によってなされる場合が多いが、藩府もまたこれを奨励した。たとえば、一八一八年(文政元)、末武下村西市の浅海長兵衛は久米村の新堤築立に一〇〇石を献じて藩から名字帯刀を許されている(「都濃宰判元控」)。このように、農民側の欲求と藩府の奨励とによって築堤が一層盛んになったのであろうが、これはまた、当時の土木技術と農工具の発達があったからこそ可能になったのであった。おそらく、明治以降にもみられた溜池の多くは、この時期か、その前後ころに造られたのであろう。
(B)石灰 下松地区の農業発展を考えるうえで見落してならないことに石灰の生産、普及がある。
石灰肥料には、石灰岩を蒸し焼いて作る石灰と、牡蠣(かき)殼を焼きたてて作る蠣灰(かきばい)とがあり、ともに早くから漆喰の材料として用いられていたが、のち田地の表土の雑草を枯らし、田にすきこんだ柴草の分解を早める作用があることから肥料として盛んに使用されるようになった。萩藩においても、近世後期には石灰・蠣灰とともに農民に重宝がられていた。
その生産は、蠣灰は瀬戸内および北浦沿岸の各地で行われていたが、石灰の方は、『注進案』および「大令録」から史料的に確認されるのは美祢郡の嘉万、赤、阿武郡の蔵目喜の各村と下松地方の瀬戸、温見、大藤谷、笠戸、譲羽の各村にすぎない(土屋貞夫「防長の石灰産業について」『みねぶんか』第16号)。このことは、下松地方が防長における石灰の一大産地であったことを示すものである。
ただ、美祢郡方面の石灰の記事がすでに一八一四年(文化十一)の史料(「御書付其外後規要集」)に見えるのに対し、下松方面では三五年(天保六)の瀬戸村大浴での石灰焼成が史料のうえでの初見であり、前者よりもやや遅れて普及したのではないかと思われる。しかし、四九年(嘉永二)六月には本藩についで徳山藩でも「田方植付前後相用候儀差留」(「大令引出草稿」五)を令している。これは、石灰の濫用によって土質が低下することを憂えてその使用を禁じたのであるが、当時、すでに右のような禁止令を出さねばならぬほど、急速に石灰使用熱が農民の間に広まっていたのであろう。
このように、石灰に対する関心の高まっている折、笠戸島で石灰石が発見され、以後ここが石灰生産の中心地となった。笠戸島で石灰石を発見したのは、熊毛郡阿月の邑主浦靱負の家臣で、のち尊王志士として活躍し、維新後は塩業をはじめ諸産業の発展に努めて大きな功績をのこした秋良貞臣であった。父貞温とともに諸国の志士と交わって国事に奔走しながら、同時に物産会所を創設し、物産奨励に当たった貞臣は、一八五九年(安政六)、笠戸島の藩有林内で石灰石を発見した。これよりさき、石灰の生産を藩命で禁じられていた萩藩では、ひそかに藩外からこれを持ち込むものが多かったが、笠戸で石灰を発見した貞臣は、他国からの密輸を防止するため、藩府へ石灰製造の禁令を解除するよう請願し、数カ所に窯を築いて石灰を焼成した。これが防長において石灰を公に製造したはじめといわれている(臼杵華臣『秋良貞臣日誌』解説)。
これに対し地元笠戸島では、本浦の橋本弥恵吉という人物が幕末に尾郷地区で最初に石灰焼成をはじめたと伝える。おそらく、地元の人々によってそれ以前から焼成されていたのを聞き知った貞臣が、藩に請願して公の製造を認めさせたのであろう。
笠戸島産の石灰への需要は高かったとみえ、近村はもとより、徳地宰判、阿武郡から石州近くまで、中の関の問屋を通じて、佐波川通船で送られていたようである。主な採掘地は木浦・東風(こち)浦・峠浦・尾郷で、窯は笠戸本浦・東風浦・尾郷にあった(土屋貞夫前掲論文)。
石灰は窯の築き方や焼き方によって品質が大きく左右されるので、頭領(焼成夫)は特殊技術が要請される。古老の話では、明治時代に笠戸からは、石灰焼成の請負取人として富山・大坂・名古屋から台湾方面まで、全国各地へ多くの人が出向いていたという。なかでも興味深いのは、最初に出かけたのが大分県と美祢郡といわれていることである。この両地域は日本でも有数の石灰生産地であるが、技術的には笠戸の方が先進地だったのである。
なお、石灰の焼成には多大の燃料を要するが、笠戸島は八〇六町余の御立山を有し、大量の良木を産出して燃料に恵まれており、その点でも石灰生産に有利な自然環境にあった。