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村請と村高

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 近世社会における民衆の生活は、現代社会からは想像もつかないほど強く村と結びついて営まれていた。それだけ民衆にとって、村は精神的にも経済的にも重要な存在であったが、その要因の一つは近世社会独自の村請制にあった。
 村請制とは、村単位で年貢負担の連帯性をもつ制度で、ここでは治安や秩序も村ごとに維持するのが原則であり、村の掟や慣習を無視した生活はあり得なかった。ここから、村は行政の基本単位とされたが、そもそも村請制を可能にしたのは、村が農業生産の単位であり、生活共同体として実質的なまとまりをもっていたからにほかならない。つまり近世の村は、行政、生産の双方の単位として機能し、人々の生活は、つねに村によって支えられ、かつ村を支えることによってはじめて存立し得たのであって、村と孤立した生活は不可能であった。
 ところで、この村請制と表裏をなすのが石高制であった。土地はすべて生産高=石高で表示され、それが村高として組み立てられて、この高が年貢・諸役の基準となっていた。もちろん、農業以外の産業に大きく依存している村もあり、それをすべて米に換算して表示する村高がかならずしも生産力を正確に反映していない場合もあり、あるいは時代による変遷もあって、一律には論じられないが、しかし、石高によって大まかな村の経済的規模の比較は可能である。
 表1・表2は下松市域の村々を本藩領と徳山領に分けて、その村高を示したものである。これによって分かるように、下松市域の村々は一部山間部の村と干拓地の平田開作村を除いて、ほとんど二〇〇〇石前後の規模の村であった。全国的には平均村高五〇〇石弱といわれており、それに比べると二〇〇〇石の村は非常に大きい村ということになるが、萩藩の村高は全国でも例外的に高く、二〇〇〇石の村は萩藩内では平均をやや上回る程度であった。
表1 天保年間における下松市域諸村の村高(ただし本藩領のみ)
村名末武上末武中末武下平田開作切 山下 谷
面積石高面積石高面積石高面積石高面積石高面積石高
村高150.71252,631.225131.99102,237.517173.35043,001.64237.9513808.754106.89141,594.262140.23101,633.883
(給領地)
引方72.020引方171.934引方84.257引方29.805引方40.737
現高2,559.2052,065.5832,917.385498.3561,564.3971,593.146
123.96172,367.551107.02111,926.016148.72072,618.80534.2113498.35666.23171,308.19172.89051,237.660
(蔵入地)(蔵入地)
0.15001.7506.581989.804
(給領地)(給領地)
23.5828187.68417.0520138.04015.6023125.2693.740048.54539.8213256.20655.3329258.878
(蔵入地)(蔵入地)
1.59256.618
(給領地)
備考1.77311.3706261.853
(鉄砲川役石)(塩浜石)
2.2200.6642.020256.5740.186
(鉄砲川役石)(鉄砲石)(浦屋敷石)(山役銀)
0.8633.4618101.578
(川役石)(塩浜石)
13.386
(海上石)
『注進案』より作成。

表2 1738年における下松市域諸村の村高(ただし徳山領のみ)
村名
 
山 田来 巻河 内東豊井西豊井生野屋瀬 戸温 見大藤谷
石 高石 高石 高石 高石 高石 高石 高石 高石 高
石  石  石  石  石  石  石  石  石  
村 高1,917.36021,044.65733,344.87761,938.123 2,443.33321,969.4286993.6542744.1785402.2923
1,730.153 899.953 2,571.83151,381.457 1,775.203 1,712.140 794.438 674.161 372.296 
187.2072144.7043501.8874455.321 563.854 257.2886193.916270.017529.9963
諸役石0.3  
(紙船石)
5.0  
(山石)
備 考諸除高271.1587石を含む諸除高101.345石を含む諸除高104.2762石を含む田高に除高9.0448石を含む
『地下上申』より作成。

 村には、(A)藩直轄地の蔵入地のみの村、(B)藩士に給付された知行地=給領地のみの村、(C)蔵入地と給領地の両方のある村の三つがある。この表から分かるように、下松市域の諸村では、平田開作村が(B)、末武上村・下谷村が(C)であるだけで、他はすべて(A)である。しかも(B)の平田開作村が村高八〇八石余、(C)の末武上・下谷の給領地もともに微々たる石高であって、この地域では給領地の占める比率はきわめて低かった。それだけに在郷武士の在地に対する影響力は弱かったのが、この地域の一つの特色だったといえる。