表3 下松市域諸村の人口 |
男 | 女 | 計 | ||
本 藩 領 | 人 | 人 | 人 | |
末武上村 | 697 | 651 | 1,384 | |
末武中村 | 524 | 435 | 959 | |
末武下村 | 1,263 | 1,196 | 2,459 | |
平田開作村 | 292 | 254 | 546 | |
切山村 | 336 | 299 | 635 | |
下谷村 | 399 | 372 | 771 | |
徳 山 領 | 東豊井村 | 593 | 583 | 1,176 |
西豊井村 | 1,329 | 1,226 | 2,555 | |
河内村 | 684 | 655 | 1,399 | |
来巻村 | 284 | 288 | 572 | |
山田村 | 322 | 301 | 623 | |
生野屋村 | 474 | 477 | 951 | |
瀬戸村 | 263 | 265 | 528 | |
温見村 | 165 | 156 | 321 | |
大藤谷村 | 114 | 99 | 213 |
本藩領は『注進案』、徳山領は『地下上申』より作成。 |
表4・表5はこれらの村々における村役人の員数を掲げたものである。徳山藩では領内の行政を町方と村部とに分け、前者を町奉行、後者を代官がそれぞれ統轄した(第三章、4、第四章、2)。前者の各町には、民間から選任された年寄役、目代が、また後者の村部には、同じく民間から選任の庄屋、畔頭(くろがしら)がいて管轄区内の民政を取りしきった。
表4 下松市域諸紂の地下諸役(ただし本藩領のみ) |
庄屋 | 年寄 | 畔頭 | 目代 | 証人 百姓 | その他 | |||
米計 | 蔵番 | 茶屋番 | ||||||
人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | 人 | |
末武上村 | 1 | 1 | 4 | 1 | 1 | 1 | ||
末武中村 | 1 | 3 | 1 | |||||
末武下村 | 1 | 2 | 6 | 1 | 1 | |||
平田開作村 | 2 | 2 | 1 | 1 | 1 | |||
笠戸島 | ||||||||
切山村 | 1 | 3 | 1 | |||||
下谷村 | 3 | 2 | ||||||
計 | 6 | 3 | 21 | 2 | 1 | 7 | 1 | 1 |
『注進案』(1842年)より作成。 笠戸島の人数は末武下村の人口に含まれる。 |
表5 下松市域諸村、町の地下諸役(ただし徳山領のみ) |
庄屋 | 畔頭 | 年寄 | 目代 | 管 轄 区 域 | ||
村 内 | 人 | 人 | 人 | 人 | ||
東豊井保村 | 1 | 2 | 寺迫組、鯉ケ浜組 | |||
西豊井保村 | 1 | 3 | 能行組、柳組、土井組 | |||
河内保村 | 1 | 4 | 大河内組、久保市組、出会組、吉原組 | |||
来巻村 | 1 | 2 | 東組、西組 | |||
山田村 | 1 | 3 | 上組、中組、郷組 | |||
生野屋村 | 1 | 3 | 上組、中組、下組 | |||
瀬戸村 | 1 | 4 | 鳴組、一ノ瀬組、後山組 | |||
温見村 | 1 | 2 | 上道谷組、下組 | |||
大藤谷村 | 1 | 2 | 上組、下組 | |||
町 方 | 下松町 | 2 | 1 | 中川原町、中市、東市、新町 | ||
岡市町 | 1 | 2 | 岡市町 | |||
久保市町 | 1 | 2 | 久保市町 | |||
峠市町 | 1 | 2 | 峠市町 |
『藩史』より作成。 |
一方、本藩領では、蔵入地においては庄屋・畔頭によって、また給領地においては小都合(こつごう)庄屋、給庄屋、給畔頭によって行われるのが一般的形態であった。しかし、給領地のあった末武上・平田開作・下谷の各村においても給領地独自の名称の役人はおいていなかった。
庄屋または年寄は、村または町方の最高責任者として畔頭または目代を統轄し、そこから提出される「宗門帳」や年貢収納に関する諸帳簿のとりまとめ、勧農のための諸業務の指揮、指導等を行った。
これに対し畔頭または目代は、管轄の組内または町内の実務全般を直接取りしきる役で、戸籍簿、春定名帳等の諸帳簿への記入、道路、用水路の管理、農耕状況の調査、勧農の推進、共同作業の手配等を行い、住民生活のすみずみにまで関与した。
畔頭または目代の下に五軒を一組とした五人組(のちに五人組を二組合わせた一〇軒からなる十人組)が組織され、キリシタンの探索その他の相互監視、年貢納入の連帯責任を課せられたが、同時に住民の相互扶助の機関としても機能した。
この十人組のうちから世話役として頭取百姓一人を選び、さらに頭取百姓の中から畔頭(または目代)組一組ごとに百姓の総代として一人の証人百姓を選んで、畔頭(または目代)のもとで諸経理の監査に当たるのが一般的な形態であった。ただ、当地方の場合、その実態を記した史料は見当たらず具体的な様子は分からないが、他地域同様の組織が民衆社会の底辺に張りめぐらされていたに違いない。
なお、末武上村には都濃宰判の役所である勘場(かんば)があり、大庄屋、恵米方(けいまいがた)、算用師(以上三者を勘場三役といった)等が勤務した。大庄屋は各村の庄屋を指揮して宰判内の民政をつかさどる民間側最高の役職で、宰判内の名望家から一人を選んだ。恵米方は大庄屋の事務の補佐を、算用師は年貢米銀の勘定、春定の精算等、主として算用関係の事務を担当、ともに民間から選んだ。