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階層関係

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 近世の農村は、地域や条件による差異はあるにしても、原理的には経済的にほぼ同質の農民で構成されるのがたてまえであった。すなわち、農民は、(1)夫婦、子供を中心とする単婚小家族で、(2)約一〇石一町前後の田畑をもち、自給自足する「本百姓」が一般的形態であった。そして、この経済的自立体としての体質をそなえている本百姓経営(実際には有力農民の下で、その被官百姓的存在として賦役労働に従事するものが多くいた)を堅持させることによって為政者は中間搾取者のいない、農民を直接把握できる農村を好ましい農村の姿と考えた。このため、近世初期の段階では百姓間での土地の売買を堅く禁じ(「田畠永代売買禁止令」)、農民層の階層分解を抑制することに力を入れた。しかし、金策に困った農民が質入れして土地を手離すことが多く、本百姓体制を維持することは容易ではなかった。
 特に、十七世紀末以降、生産力の発展に伴い、年貢を収取されてもなお農民の手もとに剰余が残るようになると、商業的農業がすすみ、それに伴い農村の様相はしだいに変貌することとなった。商品経済の波をかぶった社会では、農民個々の労働意欲、経済能力、地理的条件等さまざまな要素によって経営が大きく左右されるからである。それまでほぼ同じ階層を形づくった農民たちは、土地を集積して豊かになって行く農民、現状維持の農民、しだいに田畑を手離して没落する貧農、さらに農業をやめて商人、手工業者となるものなど、さまざまなタイプに分かれ、幕藩制農村社会の原則が崩れていった。これは全国的な現象で、各藩ともその対策に苦慮したが、萩藩もその例外ではあり得ず、しだいに農民の階層分解が進行し、十九世紀初頭には
二百年来漸々に土地かたよりて平均ならず、夫境内の民凡そ富める者千戸に百戸計、飢えず寒へず中なるもの二、三百戸、又五、六百戸乃至七百戸は、田地僅に二、三反、或ハ一、二反持たる小民なり、其以下は宅地も有や無きやの水呑百姓なり(「某氏意見書」)
と、藩政担当者村田清風を歎息せしめるほどの状態になっていた。
 下松地域においても同じような傾向にあり、表6に示したように農村内部で本百姓の分解現象がみられた。ここでいう本軒、七歩五朱軒、半軒、四半軒、二歩五朱軒、門男(もうど)という区分は、元来門役銀などの納税の基準として、家の石高に応じて区分、使用された用語である。地域、時代によってその石高は異なり、統一的基準はなかったといわれているが、当嶋宰判では、高一〇石以上を本軒、九石九斗九升~七石五斗を七歩五朱軒、七石四斗九升~五石を半軒、四石九斗九升~二石五斗を二歩五朱軒、二石四斗九升以下を門男としている(「佐藤寛作手控」)。下松地域の場合は分からないが、これを一つの目安として表7を見ても、農民の階層分解が大きく進んだことがうかがえる。それも一八四二年(天保十三)の方が一七三八年(元文三)の段階より村内での門男の比率が一段と高くなっており、中間層が減り、しだいに両極に分解していったことが分かる。ただ、本百姓はしだいに株化し、本軒、半軒、門男等の呼称が農民の土地保有の実態をそのまま反映しなくなったのも事実で、前頁の表だけからでは分解の規模は正確には知りがたい。そこで宝暦の検地帳の分析が必要となってくるが、下松地域で宝暦検地帳小村絵図が現存しているのは末武上村の分(第六章3)だけである。表7は、そのうち二郎右衛門組のみに限って分析し、田地名請者の面積別人数を示したものである。畑地についてはすべて省略し、それに一村四組のうちの一組のみを扱っただけで全耕地を対象としたものではないが、しかし、この表からだけでも、階層分解がすでに宝暦年間(一七五一~六三年)に大きく進行したことは理解できる。すなわち、三反以下の零細農民は全体の六五・三パーセントにも達している一方で、一人ではあるが、三町以上の所有者がいる。この一人は庄屋八木伝左衛門で、庄屋と多くの一般農民とでは非常に大きな経済的格差があったことをこの表は示している。
表6 下松市域諸村における本百姓の分解(ただし本藩領のみ)
村名本百姓門男備考
本軒七歩五
朱軒
半軒四半軒
末武元文 3140178168232718町屋敷85を除く
末武上元文 3
天保13111235235122343
末武中元文 3
天保131419476799246
末武下元文 3
天保1331741140377596
平田開作元文 3
天保13116982135
笠戸島元文 3
天保13
切山元文 3242316103166
天保13155263585166
下谷元文 312265795
天保13149246393203
元文 3176227184392979
天保13301721983427761,689
『地下上申』『注進案』により作成。
元文3年の末武上・中・下村及び平田開作村は末武村に含まれる。

表7 田地名請の面積別人数
名請面積人数
    反
40未満1
300
200
101
  91
  82
  73
  67
  510
  49
  315
  222
  113
  0.514
98
「小村絵図帳」より作成。ただし、畑地は除く。

 もちろん、これら零細農民にも田地以外に畑地や次項で述べる農間余業による収入もあったが、多くは有力百姓の小作として生活を維持していたにちがいない。したがって、行政上の庄屋・畔頭-村人関係とは別に、近世中期以降の農村内部には新たに地主-小作の階層関係が徐々に成立しつつあったのである。この地域からは、後に上原家や堀家などのような周東部を代表する大地主が現れるが、これらもおそらく近世中、後期ころからしだいに土地を集積していったのであろう。