もともと領主は、米への執着度が強かったうえに、畑の生産力が弱かったことから、畑については田ほどの関心を示さず、畑の測量は水田よりもいっそう緩やかであった。このため、米で高率の年貢をとられる農民は、不足分を補うために畑作に力を入れ、その経営は時代とともに多様化して、生産力の上昇度も水田の場合よりも高かったが、このことはおそらく下松地域においても同様であったろう。
表12は末武上村における穀類の生産量を示したものである。これだけの数量の穀類のほかに『注進案』は大根一万三二〇貫目と茄子一三三二荷をあげている。『注進案』の筆者は、この穀類の合計一三四四・一九七石と、米の収穫高一七三五・五一石から貢租分を引いた作徳手取高五〇一・六六五石を合わせた一、八四五・八六二石で村民が賄われていたとし、それを村内人数一三四八人で割った一・三六九石をもって一人当たり一年分の食糧と計算している。さらに、当村は町場なので田畑数に比して人数が多いので「大根、茄子、豆の葉等いずれも喰料ニ相成申候」と書きとどめている。年貢米として取られた米の不足分はこのように畑作による穀類および野菜類で補足していたようである。
表12 末武上村の穀類生産高 |
種 類 | 収穫量 |
石 | |
麦 | 867.369 |
大豆 | 38.386 |
小豆・大角豆 | 15.476 |
蕎麦 | 55.03 |
豌豆 | 40. |
秋大豆 | 40. |
黍粟 | 40. |
粃 | 247.931 |
計 | 1,344.192 |
『注進案』より作成。 |
表13は、右と同じ計算方法で各村の一人当たりの食糧を算出したものである。この表で、末武下村と平田開作村の両村だけは年間一人当たりの食糧が一石を割り、非常に少ないが、先にみたように両村は塩業によって大量に銀収入のある村であり、それによって他村から食糧を購入していたのであろう。したがって、いずれの村においても米と雑穀合わせて一人平均一石以上(したがって一日二合七夕以上)の食糧を得ていたことはまちがいない。それを可能にしたのは、近世中期以降、年貢率の低い畑地での生産力の著しい向上があったためである。
表13 下松市域諸村の一人当り食糧(ただし本藩領のみ) |
収穫高 (A) | 貢租 (B) | 作徳手取高 (A)-(B) | 人口 | 年間一人 当り食糧 | 一日一人 当り食糧 | ||
石 | 石 | 石 | 人 | 石 | 合 | ||
末武上 | 米 | 1,735.519 | 1,233.854 | 501.665 | |||
雑穀 | 1,344.197 | ‐ | 1,344.197 | 1,348 | 1.369 | 3.75 | |
計 | 1,845.862 | ||||||
末武中 | 米 | 1,444.820 | 1,033.895 | 410.925 | |||
雑穀 | 830.607 | ‐ | 830.607 | 959 | |||
計 | 1,241.532 | 1.295 | 3.54 | ||||
末武下 | 米 | 2,176.102 | 1,447.638 | 728.494 | |||
雑穀 | 1,355.130 | ‐ | 1,355.130 | 2,459 | 0.847 | 2.32 | |
計 | 2,083.624 | ||||||
平田開作 | 米 | 429.017 | 295.232 | 133.785 | |||
雑穀 | 70.580 | ‐ | 70.580 | 546 | 0.374 | 1.02 | |
計 | 204.365 | ||||||
切 山 | 米 | 861. | 753.409 | 107.641 | |||
雑穀 | 873.710 | ‐ | 873.710 | 635 | 1.545 | 4.23 | |
計 | 981.351 | ||||||
下 谷 | 米 | 838.255 | 687.748 | 150.507 | |||
雑穀 | 753.414 | 145.783 | 607.630 | 738 | 1.027 | 2.81 | |
計 | 758.137 |
合以下四捨五入。 | 『注進案』より作成。 |