ビューア該当ページ

生活を支えた畑作物

428 ~ 429 / 1124ページ
 以上のように、生産活動のすみずみにまで租税の網の目が張りめぐらされ、人々の生活は強い規制を受けた。生産者が米を生産しながら、わずかな米しか食べることができなかったことは、いかに苛酷な生活を強いられていたかを如実に示すものである。しかし、このことから、当時の民衆生活の悲惨さのみに眼を奪われ、彼らの生活の発展、向上しつつあった面を見落してはならない。たしかにその生活水準は、近代以降と比較すれば非常に低いものであった。しかし、生産用具、生産技術の改良、普及によって、近世中期以降、徐々にではあるが各部門において生産力は確実に向上していった。そして、それに伴い実質的な年貢率は低下し、それだけ農民の生活は上昇したのであったが、特に畑作の発展はその面で大きい成果をあげた。というのは、畑年貢は水田年貢よりも低かったからである。
 もともと領主は、米への執着度が強かったうえに、畑の生産力が弱かったことから、畑については田ほどの関心を示さず、畑の測量は水田よりもいっそう緩やかであった。このため、米で高率の年貢をとられる農民は、不足分を補うために畑作に力を入れ、その経営は時代とともに多様化して、生産力の上昇度も水田の場合よりも高かったが、このことはおそらく下松地域においても同様であったろう。
 表12は末武上村における穀類の生産量を示したものである。これだけの数量の穀類のほかに『注進案』は大根一万三二〇貫目と茄子一三三二荷をあげている。『注進案』の筆者は、この穀類の合計一三四四・一九七石と、米の収穫高一七三五・五一石から貢租分を引いた作徳手取高五〇一・六六五石を合わせた一、八四五・八六二石で村民が賄われていたとし、それを村内人数一三四八人で割った一・三六九石をもって一人当たり一年分の食糧と計算している。さらに、当村は町場なので田畑数に比して人数が多いので「大根、茄子、豆の葉等いずれも喰料ニ相成申候」と書きとどめている。年貢米として取られた米の不足分はこのように畑作による穀類および野菜類で補足していたようである。
表12 末武上村の穀類生産高
種 類収穫量
867.369
大豆38.386
小豆・大角豆15.476
蕎麦55.03  
豌豆40.      
秋大豆40.      
黍粟40.      
247.931
1,344.192
『注進案』より作成。

 表13は、右と同じ計算方法で各村の一人当たりの食糧を算出したものである。この表で、末武下村と平田開作村の両村だけは年間一人当たりの食糧が一石を割り、非常に少ないが、先にみたように両村は塩業によって大量に銀収入のある村であり、それによって他村から食糧を購入していたのであろう。したがって、いずれの村においても米と雑穀合わせて一人平均一石以上(したがって一日二合七夕以上)の食糧を得ていたことはまちがいない。それを可能にしたのは、近世中期以降、年貢率の低い畑地での生産力の著しい向上があったためである。
表13 下松市域諸村の一人当り食糧(ただし本藩領のみ)
収穫高
(A)
貢租
(B)
作徳手取高
(A)-(B)
人口年間一人
当り食糧
一日一人
当り食糧
石 石 石 
末武上1,735.5191,233.854501.665
雑穀1,344.1971,344.1971,3481.3693.75
1,845.862
末武中1,444.8201,033.895410.925
雑穀830.607830.607959
1,241.5321.2953.54
末武下2,176.1021,447.638728.494
雑穀1,355.1301,355.1302,4590.8472.32
2,083.624
平田開作429.017295.232133.785
雑穀70.58070.5805460.3741.02
204.365
切 山861.    753.409107.641
雑穀873.710873.7106351.5454.23
981.351
下 谷838.255687.748150.507
雑穀753.414145.783607.6307381.0272.81
758.137
合以下四捨五入。『注進案』より作成。