ビューア該当ページ

消費生活の拡充

430 ~ 433 / 1124ページ
 現物および貨幣によって多くの年貢を収取されながらも、民衆はたくましく生き、入手した貨幣によって、これまでの自給経済の生活から、しだいに脱していった。では、貨幣はどのくらい生活のなかに浸透していたのであろうか。
 『注進案』の下谷村の項には、それをうかがうのに恰好の記述が見える。というのは、当村に限って、農具・家具・食料等の年間経費が記されているからである。表14はそれをまとめたもので、ここから当時の農民生活についてさまざまなことが分かる。たとえば、村内の軒数は一九八軒(給領分を除く)であるが、鎌・鍬・肥田子などの農具所有者は一七〇軒で、これらを購入することもできなかった階層が二八軒ある。また、塩・醬油・灯油は全軒購入しているが、酢・生酒・魚は一六〇軒で、まだ全部ではない。味噌も九八軒が購入し、残り一〇〇軒は自分の家で作っている。このように、まだ一部には農具も食料も購入できない層もあったが、しかし、すでに大半の農民はそれを貨幣によって入手していたことはこの表から明らかである。
表14 村内諸経費(下谷村)
銀 高
(一年分)
軒 別備  考
草刈鎌0.9183枚1枚1.8匁、170軒分
木切鎌1.0202 〃 1枚3匁、170軒分
鍬先きへら1.062各1 〃 鍬先き1枚5匁、へら1枚1.25匁、170軒分、2か年持
鋤ノ木0.2821本1本1.66匁、170軒分、3か年持
畑鍬0.6381丁1丁3.75匁、170軒分、4か年持
馬鍬0.5661 〃 1丁3.33匁、170軒分、3か年持
斧先き懸0.3061 〃 1丁1.8匁、170軒分
金鍬0.2041 〃 1丁1.2匁、170軒分
熊手鍬0.0851 〃 1丁0.5匁、170軒分、4か年持
1.6151 〃 1丁9.5匁、170軒分、年々仕替
鍬先き懸け0.7653 〃 1丁1.5匁、170軒分
鍬ふろ0.3191 〃 1丁1.875匁、170軒分、4か年持
肥田子0.3402荷1荷1.05匁、170軒分、6か年持
同輪替0.2042 〃 1荷0.6匁、170軒分
肥居桶0.1701本1本1匁、170軒分、10か年持
肥受持受0.4422 〃 1本1.3匁、170軒分、10か年持
肥桶輪かえ0.6801 〃 1本4匁、170軒分
1.0693枚1枚1.8匁、198軒分
0.2383枚1枚0.4匁、198軒分
牛馬売買4.5501疋35匁、130疋分、10か年抨
風扇風車0.1651台5.5匁、30台分、10か年持
荒通シ・細通シ0.3001台5匁、60台
板箕0.1701枚1枚1匁、170軒分、4か年持
大束0.0851丁1丁0.5匁、170軒分、5か年持
稲こぎ0.4422丁1丁1.3匁、170軒分、10か年持
籾摺臼0.6001個1個6匁、100軒分
鍋、釜、茶瓶、鋳懸け0.7924匁198軒分
1.9016俵1俵1.6匁、198軒分
灯油1.1881升1升6匁、198軒分
醤油0.4753升1升0.8匁、198軒分
味噌0.2941貫1貫3匁、98軒分、残100軒自分作
0.1441升1升0.9匁、160軒分
生酒0.7203升1升1.5匁、160軒分
0.4803匁160軒分
打綿4.00040匁100軒分
染代2.04012匁170軒分
2.3762人1人分6斤60匁、396人分
飯椀、汁椀、茶椀、膳皿0.5103匁170軒分
『注進案』より作成。

 最も高価なのは牛馬で、十カ年ならしにして一カ年一匹分が三五匁もしたが、それでも一三〇匹も飼育している。農業経営にとって牛馬がいかに重要なものであったかがうかがえる。
 注目されるのは莨(たばこ)で、総家数一九八軒の全軒で軒別二人の割で三九六人が、一人当たり年間六匁の莨をのんでいて、その総額は二貫三七六匁に達する。この額は生酒代の三・三倍、馬鍬代の四・一倍にも当たるものである。莨はたびたび法令で禁止されながらもひそかに浸透していったといわれ、右の数字はそれを裏付ける一つの証拠であると同時にまた、民衆の消費生活が嗜好品にまで大きく伸びていたことを示す一例である。
 ところで、『注進案』によると、この表にあげたような各種の物品を購入することによって下谷村では計六貫四九九匁二分八厘五毛が不足することを記している。このことは、この不足額を他村からの収入によって賄っていたことを示すもので、当村では塩業その他の収入を求めて村外へ出稼ぎに行く人が多かったのであろう。下谷村の状況について『注進案』は、「当村之儀は前後左右山多、海辺へは三里も隔り市中へも遠く在郷にて商人も無御座、大体古風ニ不崩農事而已心懸申候」と記している。このように、商人もいない、古風な山間谷あいの村においても、天保年間にはすでに自給自足の社会がかなり変質していたことを右の事実は示している。まして、諸産業の発展が著しく、また他村との交流も活発に行われていた沿岸諸村では、もっと激しい社会的変動が起こっていたことはいうまでもないところである。