『注進案』の下谷村の項には、それをうかがうのに恰好の記述が見える。というのは、当村に限って、農具・家具・食料等の年間経費が記されているからである。表14はそれをまとめたもので、ここから当時の農民生活についてさまざまなことが分かる。たとえば、村内の軒数は一九八軒(給領分を除く)であるが、鎌・鍬・肥田子などの農具所有者は一七〇軒で、これらを購入することもできなかった階層が二八軒ある。また、塩・醬油・灯油は全軒購入しているが、酢・生酒・魚は一六〇軒で、まだ全部ではない。味噌も九八軒が購入し、残り一〇〇軒は自分の家で作っている。このように、まだ一部には農具も食料も購入できない層もあったが、しかし、すでに大半の農民はそれを貨幣によって入手していたことはこの表から明らかである。
表14 村内諸経費(下谷村) |
銀 高 (一年分) | 軒 別 | 備 考 | |
貫 | |||
草刈鎌 | 0.918 | 3枚 | 1枚1.8匁、170軒分 |
木切鎌 | 1.020 | 2 〃 | 1枚3匁、170軒分 |
鍬先きへら | 1.062 | 各1 〃 | 鍬先き1枚5匁、へら1枚1.25匁、170軒分、2か年持 |
鋤ノ木 | 0.282 | 1本 | 1本1.66匁、170軒分、3か年持 |
畑鍬 | 0.638 | 1丁 | 1丁3.75匁、170軒分、4か年持 |
馬鍬 | 0.566 | 1 〃 | 1丁3.33匁、170軒分、3か年持 |
斧先き懸 | 0.306 | 1 〃 | 1丁1.8匁、170軒分 |
金鍬 | 0.204 | 1 〃 | 1丁1.2匁、170軒分 |
熊手鍬 | 0.085 | 1 〃 | 1丁0.5匁、170軒分、4か年持 |
鍬 | 1.615 | 1 〃 | 1丁9.5匁、170軒分、年々仕替 |
鍬先き懸け | 0.765 | 3 〃 | 1丁1.5匁、170軒分 |
鍬ふろ | 0.319 | 1 〃 | 1丁1.875匁、170軒分、4か年持 |
肥田子 | 0.340 | 2荷 | 1荷1.05匁、170軒分、6か年持 |
同輪替 | 0.204 | 2 〃 | 1荷0.6匁、170軒分 |
肥居桶 | 0.170 | 1本 | 1本1匁、170軒分、10か年持 |
肥受持受 | 0.442 | 2 〃 | 1本1.3匁、170軒分、10か年持 |
肥桶輪かえ | 0.680 | 1 〃 | 1本4匁、170軒分 |
蓑 | 1.069 | 3枚 | 1枚1.8匁、198軒分 |
笠 | 0.238 | 3枚 | 1枚0.4匁、198軒分 |
牛馬売買 | 4.550 | 1疋35匁、130疋分、10か年抨 | |
風扇風車 | 0.165 | 1台5.5匁、30台分、10か年持 | |
荒通シ・細通シ | 0.300 | 1台5匁、60台 | |
板箕 | 0.170 | 1枚 | 1枚1匁、170軒分、4か年持 |
大束 | 0.085 | 1丁 | 1丁0.5匁、170軒分、5か年持 |
稲こぎ | 0.442 | 2丁 | 1丁1.3匁、170軒分、10か年持 |
籾摺臼 | 0.600 | 1個 | 1個6匁、100軒分 |
鍋、釜、茶瓶、鋳懸け | 0.792 | 4匁 | 198軒分 |
塩 | 1.901 | 6俵 | 1俵1.6匁、198軒分 |
灯油 | 1.188 | 1升 | 1升6匁、198軒分 |
醤油 | 0.475 | 3升 | 1升0.8匁、198軒分 |
味噌 | 0.294 | 1貫 | 1貫3匁、98軒分、残100軒自分作 |
酢 | 0.144 | 1升 | 1升0.9匁、160軒分 |
生酒 | 0.720 | 3升 | 1升1.5匁、160軒分 |
魚 | 0.480 | 3匁 | 160軒分 |
打綿 | 4.000 | 40匁 | 100軒分 |
染代 | 2.040 | 12匁 | 170軒分 |
莨 | 2.376 | 2人 | 1人分6斤60匁、396人分 |
飯椀、汁椀、茶椀、膳皿 | 0.510 | 3匁 | 170軒分 |
『注進案』より作成。 |
最も高価なのは牛馬で、十カ年ならしにして一カ年一匹分が三五匁もしたが、それでも一三〇匹も飼育している。農業経営にとって牛馬がいかに重要なものであったかがうかがえる。
注目されるのは莨(たばこ)で、総家数一九八軒の全軒で軒別二人の割で三九六人が、一人当たり年間六匁の莨をのんでいて、その総額は二貫三七六匁に達する。この額は生酒代の三・三倍、馬鍬代の四・一倍にも当たるものである。莨はたびたび法令で禁止されながらもひそかに浸透していったといわれ、右の数字はそれを裏付ける一つの証拠であると同時にまた、民衆の消費生活が嗜好品にまで大きく伸びていたことを示す一例である。
ところで、『注進案』によると、この表にあげたような各種の物品を購入することによって下谷村では計六貫四九九匁二分八厘五毛が不足することを記している。このことは、この不足額を他村からの収入によって賄っていたことを示すもので、当村では塩業その他の収入を求めて村外へ出稼ぎに行く人が多かったのであろう。下谷村の状況について『注進案』は、「当村之儀は前後左右山多、海辺へは三里も隔り市中へも遠く在郷にて商人も無御座、大体古風ニ不崩農事而已心懸申候」と記している。このように、商人もいない、古風な山間谷あいの村においても、天保年間にはすでに自給自足の社会がかなり変質していたことを右の事実は示している。まして、諸産業の発展が著しく、また他村との交流も活発に行われていた沿岸諸村では、もっと激しい社会的変動が起こっていたことはいうまでもないところである。