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御制法の条文

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 近世社会は、民衆の自給自足生活を基本として組み立てられていた社会だけに、生産力の発展、貨幣の浸透、消費の拡大等によってその基本がゆらぎはじめると、支配者の危機感はつのり、たびたび法令を発布して民心の引き締めをはかった。
 本藩、徳山藩ともに近世初期以来、種々のかたちで法令を出し、毎年正月、各宰判の代官が出郡したさいに、管下の庄屋・畔頭を召集してこれを朗読するなどしてその徹底をはかった。つぎに掲げるのは、その一つで、一八二二年(文政五)に徳山藩が公布したものである(「徳山毛利氏記録類纂」一)。まず本文を示し、つぎに内容を検討してみよう。
  御制法申諭之覚
第一条 孝順を行ひ忠信を守るへき事、孝行は御教法の本たる間、貴賤貧富となく父母に其道を尽し候儀、仮染にも忘却仕間敷候、随て家内より諸親族に及し相睦しく兄長老人には敬従ひ、子弟年少をは教導き、下賤末々迄も忠実の風儀をすゝめ、専御上を崇ひ、御国恩に報し候志浅かるましく、次てハ朋友村里の交りに至信を以て相親み、困苦災難の者等は助救ひ、就中頭立候ものは礼儀廉恥をも存知候て万事よろしく取行ひ、惣して男女大小其心得違なく身分々々をおさめ候儀可為肝要候事、
  附、至徳誠忠のものを被賞、不忠不孝を被罰候ハ御常法有之間、所役人とも常々其取正しに及へく候、(中略)およそ神に祈り仏を信し候とも先祖の祭りを懈り、存生の孝養を欠候こときは則不孝無道の人たる間、其感応あるへき事ニ無之、然時は仏神之加護も孝道其本と知り、本をつとめ候儀心得違有之間敷候事、
第二条 御法を敬ひ自職を勤むへき事、古来之御制法公儀御高札之旨、御代之御条令を始、何事によらす御上之御沙汰筋を敬ひ相守り、農工商それぞれの職業無懈可相勤儀は勿論たるへく候、就中農民は耕作の時をたかへす、心を他の業にうつさす、専田畑に精力を入れ、小身之ものは別て昼夜相応之業を励み、工商之職は偽りなく事をつとめ非分之利を貪らす惣て各身分を高ふらす、家居飲食衣服之制限を守り、其余万事に奢筋を致さす、遊惰に流れす、其職々を安んし、年貢諸上納共全く念を入れ、御制法聊も相軽んせす、随て渡世相営み家々をとゝのへ候儀可為肝要候事、
  附、在町戸別男女人数宗門等書上、田畑下札仕出共年々御法之通無相違取計之、随て牒外無宿御領外之人共猥にかこひ置、民家之男子無免許村出之儀等仕せす、別て百姓軒減し衰へ不申様、地下役共常々取しらへ及其締可然候、
  年貢物米方ハ勿論、紙納之向等諸仕立古法取正し、追々分て示諭候趣、尚諸上納銀等閑仕間敷、并田畠損亡之検見御定法等弥宜相守候、若又農商之輩或ハ私欲にくらみ、又納米又ハ運送紙等に調略之計ひなし、公納向ニ至、辞を設け秋訴専ニ及候等は、全く本を顧みす御国恩令忘却候儀共ニ付、此等之弊風は組相間互に相誡しめ、地下役共諭しにも及候儀、其職の勤めたるへく候(中略)、
第三条 正路に従ひ非分を禁すへき事、農工商雑民に至まて貞実正路を本とし、上下え対聊も邪曲を構へす、誰人之致候儀も善事をは差支へす相助け、家内親類たりとも悪事には決て相くみせす、其諫め教誡をも相加へ、惣て御制禁之事廉堅く相犯さす、其刑罸を免かれ生業全く相畢へ候儀可為肝要候事
  附、悪逆強盗其余相類し候悪事、就中切支丹宗門之徒厳科に処せらるへきは申に及はす、徒党強訴又てうさん等、天下重き御制禁之御ケ条兼々分て可相心得候、若又願ふへく訴ふへき筋にも当り、上達之道塞り無余儀訳を以ては御法も有之事ニ付、願人一両輩迄御蔵本又ハ御目付之達出等ニ及候儀に格別其筋明白に取正し可相成候、於然ハ多人数申合せ、其力を以強て出訴ニ及候儀ハ事の是非に拘らす重罪勿論たるへく、若騒々敷取計いたし候を取押へ、又ハ其企聞及、尚一旦同意申合せ候ものたり共、其罪を相理り於申出ハ御褒美可被下之、其余却て非分被荷担之輩其罪可準右候、
  淫酒に耽り博奕を楽しむは身を損し家を破るの基により重く被禁之候所、其他常躰目の及かたき(中略)
  右は御代初之御制法、尚年々地下役共之申渡所之御ケ条有之といへとも、農工商之輩全く御教誡行届候為被仰出之候条、一統敬承宜得其旨様、向後御代官町奉行其支配々々常例巡廻度、為読聞厚其諭可有之者也、
   文政五年壬午十月朔日  当職中
     御代官役