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外からの規制

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 右の制法には、①親孝行、先祖供養の励行、②法令遵守、③職務専念、④私利私欲、奢侈の抑制、⑤勤勉、至誠心、相互扶助の奨励、⑥年貢怠納の禁止、⑦強盗、淫酒、賭博の禁止、⑧家産の維持等、近代以降の日本社会においても美徳とされてきた徳目が多く見られるが、しかし、その根底の精神が、人格の平等を基本とする近代法とは本質的に大きく異なるものであることはいうまでもない。たとえば、「男女大小共其心得違なく身分々々をおさめ候儀可為肝要候事」(第一条)とあるように、身分相応を説き、家居、飲食、衣服に至るまで制約を加えて、身分制社会の安定化をはかり、また「何事によらす御上之御沙汰を敬ひ相守り」(第二条)と、支配者への盲目的服従を強調しているのであって、右の①~⑧も封建秩序維持の一環としてあげているにすぎないことは明白である。したがって、ここでは切支丹宗門の徒はもとより、徒党、強訴、逃散等を企てたもの、あるいは「多人数申合せ、其力を以て強て出訴ニ及」んだものは「事の是非に拘らす重罪」に処せられ(第三条)、また戸籍の明らかでない無宿者や藩外のものを宿泊させ、無許可で出村することも厳しく禁じている(第二条)。
 しかも、この制度の背景には、藩政初期から施行されている各種の法令があり、それを前提として発布されているのであるが、そこには具体的にこまかな規定がある。たとえは服装に関しても一六九一年(元禄四)の「衣類定」(「徳山毛利氏記録類纂」一)でつぎのように規定している。
一、町人百姓は大小身共ニ絹之類、帯ゑり袖裏ニも一切停止たるへき事、
  附、名字家名持来候限有ものハ、有合候麻上下ならびに夏衣類、布、さらしの類不苦候、其外末々之者は地布可着之事、
  附、町人百姓之妻女等きぬの類、帯、袖裏等迄堅可為停止之、但、名字家名持来候限有もの之妻女等下着ハ有合候古ききぬ、つむき之類不苦、ならびに夏衣類有合候布、さらしの類不苦候、きぬ、ちゝみ、ぬいはくの帷子等可為停止候、其外末々之妻子等絹之類一切停止之、夏衣類地布可着之事、
百姓、町人は右のように布地の種類に至るまで厳しい規制を受けていたのである。

 したがって、制法のなかにいかに民衆取立ての文言があっても、その目的が、民衆生活の真の向上、安定ではなく、幕藩権力の安定的統治にあり、民衆の取立てはそのための手段にすぎないことは明らかである。しかも、民衆にとって悲惨だったのは、これらの諸法規を犯さぬよう民衆はそれぞれ仲間内からも見張られるような仕組みのなかで生活させられていたことである。すなわち、近世社会では、民衆は五人組(あるいは十人組)に組織され、これが生活上の相互扶助の役割を果たすと同時に藩の地方支配の最末端組織として法令取締りのための相互規制の役をなし、おちどがあった場合は連帯責任となった。そのため、民衆は法令を自分で守るだけでなく、つねに隣人の監視、通報を義務づけられていたのであったが、これが民衆社会の健全な成長を妨げたことはいうまでもない。ただ、下松の場合、畔頭組の下の最末端の組織である五人組(あるいは十人組)が、実際どのような構成をなしていたか史料的には明らかにできない。