しかも、この制度の背景には、藩政初期から施行されている各種の法令があり、それを前提として発布されているのであるが、そこには具体的にこまかな規定がある。たとえは服装に関しても一六九一年(元禄四)の「衣類定」(「徳山毛利氏記録類纂」一)でつぎのように規定している。
一、町人百姓は大小身共ニ絹之類、帯ゑり袖裏ニも一切停止たるへき事、
附、名字家名持来候限有ものハ、有合候麻上下ならびに夏衣類、布、さらしの類不苦候、其外末々之者は地布可着之事、
附、町人百姓之妻女等きぬの類、帯、袖裏等迄堅可為停止之、但、名字家名持来候限有もの之妻女等下着ハ有合候古ききぬ、つむき之類不苦、ならびに夏衣類有合候布、さらしの類不苦候、きぬ、ちゝみ、ぬいはくの帷子等可為停止候、其外末々之妻子等絹之類一切停止之、夏衣類地布可着之事、
百姓、町人は右のように布地の種類に至るまで厳しい規制を受けていたのである。
附、名字家名持来候限有ものハ、有合候麻上下ならびに夏衣類、布、さらしの類不苦候、其外末々之者は地布可着之事、
附、町人百姓之妻女等きぬの類、帯、袖裏等迄堅可為停止之、但、名字家名持来候限有もの之妻女等下着ハ有合候古ききぬ、つむき之類不苦、ならびに夏衣類有合候布、さらしの類不苦候、きぬ、ちゝみ、ぬいはくの帷子等可為停止候、其外末々之妻子等絹之類一切停止之、夏衣類地布可着之事、
百姓、町人は右のように布地の種類に至るまで厳しい規制を受けていたのである。
したがって、制法のなかにいかに民衆取立ての文言があっても、その目的が、民衆生活の真の向上、安定ではなく、幕藩権力の安定的統治にあり、民衆の取立てはそのための手段にすぎないことは明らかである。しかも、民衆にとって悲惨だったのは、これらの諸法規を犯さぬよう民衆はそれぞれ仲間内からも見張られるような仕組みのなかで生活させられていたことである。すなわち、近世社会では、民衆は五人組(あるいは十人組)に組織され、これが生活上の相互扶助の役割を果たすと同時に藩の地方支配の最末端組織として法令取締りのための相互規制の役をなし、おちどがあった場合は連帯責任となった。そのため、民衆は法令を自分で守るだけでなく、つねに隣人の監視、通報を義務づけられていたのであったが、これが民衆社会の健全な成長を妨げたことはいうまでもない。ただ、下松の場合、畔頭組の下の最末端の組織である五人組(あるいは十人組)が、実際どのような構成をなしていたか史料的には明らかにできない。