ところで、注意しなくてはならないのは、右に述べた法令に記された諸規制のなかには、単に上から民衆へ強制されただけでなく、民衆自体もそれを遵守する必要を認めている徳目も多かった点てある。たとえば、先にあげた①~⑧は勤勉、倹約、正直、孝行、忍従、献身、敬虔等の通俗道徳を強調したもので、これは支配者のためだけではなく、民衆が家を維持していくうえで最低限必要とされる徳目であった。したがって、支配強化の手段として上から強制したものであったが、民衆自体の側にも、民衆社会自衛のために大切な行為とうけとめ、自発的にその実践を説くものも多かった。特に、近世中、後期以降、貨幣経済の浸透によって農村内部に階層分解が激しくなり、家の維持に危機感をおぼえるようになると、これらを上からの強制としてではなく、民衆の最も望ましい生活規範と考え、それによって危機を乗り越えようとする気運が全国的に高まっていった。そして、民衆みずからがこれらの徳目を守ることを申し合わせたり、またその必要性を説く人を招いて講釈を聴くことがさかんになった。なかでも、儒教、仏教、神道を巧妙にとり入れて、平易な言葉で倹約、勤勉、正直などを説いた心学が最も人々に歓迎され、萩藩においても十九世紀前期ころから奥田頼杖や近藤平格などの著名な心学者による心学道話が村々でしきりに行われるようになり、藩もまたこれを奨励した。心学に限らず、民衆相手に孝行、勤勉、倹約等の必要性を説く各種の講話者が広く活躍したのがこの時期の全国的な一つの特徴であったが、下松地域でいえば、花岡八幡宮の神宮村上基徳はそうした運動の先駆的人物であった。
基徳は一七五八年(宝暦八)、花岡の村上家に生まれ、八九年(寛政元)から京都で垂加神道を学んだ。垂加神道は、近世前期に儒学者山崎闇斎によって創唱された神道説で、儒教の道徳思想によって構成された神道の理論体系であった。その説くところは、人の心に神が内在し、神と人とは基本的には同一のものであるという立場から、神話のなかの神々の事跡を人間の行為として解釈し、そこに道徳の根拠を求め、君臣が一体となって「中」の徳を守るべきことを強調するもので、神職のあいだに強い影響を与えた。この教えを京で学んだ基徳は、帰郷後、私塾を開いて村人の教育にたずさわったが、その「神道講釈」は広く人々の注目を集め、やがて藩主や上級武士も好んでその講釈を聴くようになり、一八二〇年(文政三)にはその功績によって藩から狩衣を拝領している。「村上家文書」によると、彼の神道講釈は主に『日本書紀』に基づく神話の説明であったようであるが、もちろん神話によって垂加神道流に社会秩序のあり方を説いたのであろう。
末武地方では幕末に各所で神道講釈が頻繁に行われている(「神爾代々記録」花岡八幡宮蔵)。これは、基徳のとき以来、この地に神道講釈が根づいた証拠であろうが、それにしても幕末の動乱期にこれがしきりに行われたことは、神道講釈が心学その他の通俗道徳を説く講話と同じく、生活に結びついた実用性の高い教えとして人々に歓迎されていたことをうかがわせるものである。
一方、民衆のなかに、一部ではあれ、このように道徳を上からの強制としてうけとるのではなく、商品経済の進展によってもたらされる危機克服のための自己規制ととらえ、みずから進んで禁欲的に生きる道を求める風潮がみられたのは、結果的には支配体制を下から支えることであり、為政者にとっても好ましいことであった(安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』)。このため、支配者は民間における道徳高揚の動きがあると、これを巧みに治政に利用しようとした。たとえば、民間において道徳の実践者として名の知られた人物があると、藩はこれを「奇特之者」あるいは「孝子」として顕彰することに努め、多くの人々を地位、身分に関係なく理想的農民として表彰したが、下松地域でもこうして表彰された人は少なくない。すなわち、河内、来巻、切山、山田村内だけでも、河内村のおかやをはじめ、切山下村の宇兵衛、山田中村の寅吉、同金三郎、河内村小野の弥三郎、弥八父子、同源右衛門、来巻村の喜三郎、河内村久保のぬい、同久保岡市の浅右衛門(以上『久保村郷土史』)等がそれであるが、最も有名なのは笠戸島のまさで「防長の三孝女」のひとりと称せられた。
まさは一七六二年(宝暦十二)に笠戸島深浦の貧農に生まれた。父久助が酒好きなうえに母が重い眼病で生活は苦しく、まさは幼少のときから朝は海浜で魚貝をあさり、昼は田畑を耕し、枯木を拾い、あるいは他家に雇われて得たわずかの収入で家計を支えるとともに母の看病に当たった。また、毎朝、沐浴して妙見社に詣でて母の眼病治癒を祈願したが、その甲斐なく母は盲目となり、そのうえ夫は家を捨てて出てしまう。しかし、それにもひるまず両親へ孝養を尽くした。やがて、孝女としてその名が遠近に知れわたり、一八〇七年(文化四)に藩主から米一俵を、ついで一〇年には屋敷を賜わった。さらに五七年(安政四)、藩主毛利敬親が花岡通過のさい、勘場に召し出され、毎年米一石下賜の覚書を受けて「郡中の宝」と賞され、さらに翌五八年には永代苗字を免与され、「正浦」と名乗ることとなった(『下松市の石造文化財』)。また、藩主は徳山藩絵師南陵をその住居に遣わし、まさの肖像を描かせてもいる(第八章3(2))。
これをみても、当時、いかに為政者が孝子顕彰に力を入れていたかが分かろう。為政者は、このような農民のなかの秀でた道徳実践者を顕彰することによって、民衆のあいだに内から芽ばえつつあった道徳心をいっそう高めさせ、それによって秩序維持をはかることをねらっていたのであろう。