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神仏混淆形態

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 明治以前の寺社が、明治以降の寺社と比較して最も大きく異なっていたのは、一区画内、または隣接地に、寺と宮とが併存し、仏僧と宮司が共同で祭祀行事を行う神仏混淆の寺社が多かった点である。これは、仏教信仰と日本古来の神祇信仰とを融合するためにおこった神仏習合現象=神仏一体化現象の名残りをとどめた形態である。神仏習合は、そもそも奈良時代に、神も仏法を悦ぶという立場から、神社の近辺に神宮寺を建てるようになったのが起こりで、その後、しだいに発展し、仏や菩薩が日本では仮に神の姿となって現れたのであって、仏が本地、神がその垂迹で、たとえば、阿弥陀如来の垂迹が八幡神、伊勢大神宮の本地が大日如来であるとする本地垂迹説が仏教側から主張された。これが平安時代に広く普及し、神社の傍に神社の祭祀をつかさどる社坊を建立したり、また祭神に本地の仏尊を設定することがしきりに行われるようになった。これに対し、十三世紀後期以降、日本人の神信仰が高まると、神が仏に優越するとする考え方が台頭して、反本地垂迹説が現れ、近世に入ると神宮寺や社坊の数はしだいに減っていったが、それでもなお中世の形態をとどめているものも少なくなかった。
 下松地方でも、たとえば河内村の妙見社についてみるに、中世では上宮、中宮、下宮(若宮)の三社以外に、中之坊、宮之坊、宝樹坊、宝積坊、宝蔵坊、宝泉坊、宮司坊(のち改め鷲頭寺)の七坊よりなっていたが、近世では七坊のうちの鷲頭寺だけが残って他は消滅し、三社一坊で一山をなしていた。そして、上宮の本尊は虚空蔵菩薩、中宮の本尊は妙見菩薩であった(『寺社由来』。なお、若宮と鷲頭寺の本尊については記されていない)。
 また、花岡八幡宮には、中世九カ寺の社坊があったが、近世では地蔵院と閼伽井坊の二カ寺のみが残り、大宮司村上家と三者で八幡宮の行事をとり行った(『注進案』)。このように、神社と寺院が併存し、神官と僧侶が共同奉祀をする形態は、明治以降の、神仏が分離した寺社しか知らない現代人には容易に理解しがたいが、花岡八幡宮の例祭巡幸絵馬の下絵(一七六七年)からその一端を伺い知ることができよう。すなわち、この絵馬には八幡宮社頭から町なかへ下って行く巡幸のさまが描かれているが、町へ向かって右に閼伽井坊、左に地蔵院があり、巡幸の列も、神興より前の方に剃髪、衣、袈裟装束の正福寺、神光院、分国寺、閼伽井坊、地蔵院の僧侶がおり、その後に神道狩衣装束の村上刑部ほかの多数の神官が続き、現在の祭りからは想像もつかないような光景が見られる。

花岡八幡宮例祭巡幸絵馬の下絵

 では、このような神仏混淆の神社での神前勤式はどのようにして行われていたのであろうか。これにつき、「神爾代々記録」の「御田送執行」の際の神勤座席についてみるに、図1のように、社僧地蔵院を中央にして宮司村上刑部と社僧閼伽井坊が左右に控えており、また、奉幣終了後は図2のように並んでいる。さらに、神前諸作法の順序についても詳しく記されているが、いずれの場合も最初は地蔵院であり、神事の統括者は宮司ではなく社僧であった。しかし、神輿の戸を開いて神移しをしたり、参詣人へ対し御幣を振って祓いの行事等をするのはすべて宮司村上刑部であって、社僧はこれには関与していない。一方、神殿の鍵は閼伽井坊が所持して他へは渡さず、これがもとで村上家としばしば紛議を生じていた。

図1 神勤定座図
「神爾代々記録」より作成。


図2 奉幣後の定座図

 このような状態で、三者は複雑な関係にあったが、総じて社坊の二僧が八幡宮一山の管理・運営面で権限をもっていたのに対し、宮司の村上家は、宗教的に参詣者や氏子と神の間をとりもつ面での主導的役割を果たしていた。したがって、八幡宮傘下の龍神社、塩釜社、荒神社など近辺の社での祭祀はすべて村上家のみで取りしきった。
 それにしても、宮司や社僧は社会的にどのような任務をもっていたのであろうか。「神爾代々記録」によると、彼らの任務はあくまで各種の祈禱が主で、死者追善は藩主の葬儀や年忌のさいに萩へ出て諷経(ふぎん)に列するくらいである。祈禱としては、藩主の武運長久、病気平癒、宰判静謐、交通・航路の安全、五穀成就、風鎮、雨乞い、止雨、虫除け等を願って、さまざまな祈願を行っている。その祭礼に神前で「大般若経」を転読していたことは確認できるが(『注進案』)、その他にどのような経典を読んだかは分からない。