このような、寺院と神社とが併存する形態には、制度的にも宗教的にも矛盾する部分が多く、社僧と宮司との対立がつきものだった。特に、仏教側に有利な本地垂迹説をふりかざして、社僧が宮司よりも管理・運営面で強い実権を握ることは、神道本来の姿として不自然で、神道側にはつねにこれに対する強い不満があった。このため、近世に入って儒者、国学者のあいだから排仏論が台頭してくると、これらと結んで神道から仏教的色彩を払拭しようとする運動が高まった。なかでも、幕末の平田篤胤の復古神道は仏教排斥に積極的で、神道家に強い影響を与えたが、やがてこれら平田派の神道思想家の多くが明治維新後の新政府に登用された。そして、神道国教化政策推進の一環として、彼らの提言によって神仏分離令が発せられ、全国の神仏混淆の神社から、ことごとく仏像、仏教的施設が排除され(廃仏毀釈)、社僧は還俗させられた。こうして全国津々浦々に至るまで、神仏混淆形態は解体し、下松においても地蔵院は廃寺となり、また妙見の各神社から仏像は除去されたのであった。
ただ下松の場合、興味深いのは、中市の妙見宮鷲頭寺のような、現在もなお神仏混淆形態を維持している寺社のあることで、これは全国的にもきわめて稀なケースである。
真言宗鷲頭寺はもと、妙見社の社坊として河内村吉原の若宮に隣接する地にあったが、明治初年の神仏分離令によって若宮は降松神社として鷲頭寺との縁を断って独立、また、上宮、中宮の本尊であった虚空蔵菩薩と妙見大菩薩は鷲頭寺の観音堂に移された。こうした処置を受けた時点でほとんどの社坊は廃寺となったのであったが、鷲頭寺では住職河村明範がこの本尊をもって下松町への移転を決意した。これに対し、下松町の住民はこぞって歓迎し、八〇〇余名の賛成署名をもって移転を推進しようとしたが、他方河内村の住民や周辺の真言宗寺院は猛反対し、本山仁和寺を動かしてこれを阻止しようとした。しかし、一八七九年(明治十二)、明範は西市正福寺住職の協力を得て下松町中市への移転を強行した(河村明範筆「妙見社遷座記」、同社蔵)。このとき反対派の河内村住民が鷲頭寺にあった二基の宝篋印塔の移送を妨害して松心寺の藪のなかに隠したのが現在昭和通り松心寺山門脇に立っている宝篋印塔といわれており、移転賛成派も反対派もいかに鷲頭寺に強い愛着をもっていたかがこのことだけからでもうかがわれる。神仏分離に伴う廃仏毀釈について、近世に仏教寺院はすでに民心から遊離し、明治政府の行った神仏分離政策による社坊廃止は民衆の要望にそったもので、それに対する民衆の反発はあまりなかったとする見方が一般に強い。しかし、かならずしもそうではなかったことを右の鷲頭寺移転の一件は物語っているといえよう。
ところで、神仏分離政策に反対だった明範は、移転後もその姿勢を崩さず、名称も妙見宮鷲頭寺を名乗り、神仏混淆の形態を維持して現在に至っている。もちろん、移転後は僧侶と宮司と両方がいるのではなく、住職が僧侶役と宮司役の一人二役を務め、すでに近世の形態そのままではない。しかし、現在当寺で行われている祈禱作法には、近世の神仏混淆がかもし出していた独自の雰囲気を残しているようにみえる。
その作法はおおよそつぎのような順序で行われている。黄衣、紋白装束の僧侶が、本堂内陣中央にある神殿形式の奥殿の下で二礼、二拍手(この時点では念珠は持たない)後、太鼓を打ち、奥殿に登る(普通、寺の内陣には奥殿はないが、当寺には神社と同じ形式の奥殿があり、その中央に本尊妙見大菩薩が安置されている)。ここで念珠をとり、真言宗の作法に基づいて護身の法、洒水(しゃすい)(きよめ)を行う。ついで祝詞(のりと)および表白文を読んで読経に入る。読経は儀式の種類に応じて異なるが、理趣経・観音経・妙見経・大般若経・仏説北斗七星延命経・北辰妙見菩薩経等の中からいくつかを読む。読経後、奥殿を降り、信者に向かって御幣を振って祓いをし、太鼓を打って終わる。おそらく、当寺で現在一人二役で行われている右のような勤式作法を、社僧と神官と双方で行っていたのが、近世の神仏混淆の祭祀方法であったとみて大過はないであろう。