神仏混淆で、祈禱専門の寺院のあったことを強調したが、江戸時代のすべての寺院がそうだったのでは決してない。実は、社坊あるいは神宮寺の形態をとっていたのは、主として真言宗系の寺院であって、他宗ではこのような形態は少なかった。というのは、仏教の中でも真言宗が特に加持祈禱に力を入れる宗派で、その点で神道と習合しやすかったからであろう。他宗でも、もちろん祈禱する場合もあるが、真言宗ほどこれに専念することはなく、また真宗のように教義面でも実践面でも祈禱を厳しく否定する宗派もあった。
では、祈禱以外に寺院の主たる任務としては何があったのであろうか。まずいえるのは、これらの寺院は特定の家と寺旦関係を結び、その檀家一人ひとりがキリシタンでないことを保証する宗旨保証者であると同時に、追善儀礼の祭祀者としての役割を果たしていたことである。つまり、檀家は、旅に出るときは旦那寺から宗旨を証明した通行手形を受け、また葬儀や年忌法要等の追善儀礼も、各自の意志とは関係なく、生まれる以前から決められていたその家の旦那寺を導師として行わねばならず、それに違反した場合、強い罰を受けた。したがって、江戸時代の寺院は民衆統治のための行政の末端機関としての一翼を担っていたといえよう。
しかし、当時の寺院は、右の点においてのみ民衆と関係していたのではないことも忘れてはならない。支配者側は僧侶が葬儀、年忌法要、宗旨改め以外のことで民衆に接して教化することを嫌い、萩藩においても僧侶が一般家庭で法談をする在家説法をたびたび禁止したが、しかし、その禁を犯して講を結び、僧を招いて法座を開くものが多かったことからもうかがわれるように、民衆の側の仏教に対する欲求は強いものがあった。特に、民衆生活が向上してくる近世中期以降、その傾向は一層強まり、これに対する禁止令もたびたび発せられた。たとえば、徳山藩では一七八八年(天明八)に次のような触れを発して真宗門徒の行動を戒めている(『大令録』)。
覚
近来真宗之輩宗門信仰之もの共、同行と号シ其中間之宅へ相集、宗門之儀申合、甚敷ハ説法躰之儀も有之趣相聞候、俗家之持方も有之事ニ候得ハ右体之儀ハ勿論有之間敷事ニ候、信心と候ても心得違候得者却て風俗を乱し甚以如何敷儀ニ候条、銘々遂勘弁不心得之儀無之様訖与相嗜可申候事(後略)、