下松地方で、当時このような在家法談に力を入れ、学僧としても広く名を知られた人に末武上村真宗浄蓮寺の諦観がいる。諦観は安芸の生まれで、三業惑乱のさいに活躍した大瀛(だいえい)門下十哲の一人である。三業惑乱とは、西本願寺教団で発生した近世最大の異安心(異端)事件で、信仰生活のあり方について、身、口、意の三業一致で念仏すべきことを主張する新義派(本山学林派)とそれに反対する古義派(在野派)の二つに分かれて、一七九七年(寛政九)から約一〇年間にわたって全国の門徒を巻き込んで争われ、幾人もの死者を出し、最終的には幕府が介入して、古義派の勝利で決着をみた事件である。この事件のさい、古義派を代表して論戦したのが安芸の大瀛で、彼は病の身をおして江戸に下り、幕府の尋問に応じ、江戸で客死するが、このとき大瀛の侍者として行動をともにして有名になったのが諦観である。その後、諦観は浄蓮寺へ第十一世住職として入寺した。学徳にすぐれ、「信一念義随門記」をはじめ多くの仏書を著し、本山の司教にまでなったが、彼はつねに襤褸(ぼろ)をまとい、蓮如の「御文章」を懐にして門徒を戸ごとに訪ね教化につとめたといわれる(井上哲雄『真宗本派学僧逸伝』)。
この諦観の行動にみられるように、当時の真宗の在家法談はもっぱら「御文章」の意を説き聞かせることであった。この蓮如の著した「御文章」の特色は、信仰のみによる救済を強調して倫理問題に無関心であった初期真宗と異なって、宗教生活と職業生活の一体化を説き、倫理的行為がまさに救済のあかしであるとする立場を打ち出している点である。すなわち、「御文章」では「悪人正機」の思想は見られず、自己の職業に勤勉にいそしむことが仏への報恩行為であるとして強調されたのであった。このような思想的特質をもつ「御文章」による民衆教化が近世中期以降盛んになり、したがってここでは、内心に本願を深く信じて王法を遵守し、世間の仁義礼智信の道にたがわず、それぞれの家職に励むことが信仰者の理想的な姿として説かれたのであるが、実はこのような宗教的倫理観は、前項で述べたように、単に上からの強制としてではなく、近世中期以降、階層分解の進む中で家の維持をはかるうえに必須の生活規範として民衆が志向していた道徳観と合致し、これを宗教的次元から補強するものであった。だからこそ民衆は「御文章」による教化を歓迎したのであろう。
ところで、在家法談の場であるが、これは個々の家々で個別に行う場合もあるが、講を結び、それが母体となることが多かった。「御文章」にも講の心得が記されている。元来、蓮如の布教は講における在家説法を核として展開し、近世本願寺教団もこれを踏襲して、近隣一〇~二〇戸程度からなる小寄講(およりこう)を発展させることに努めた。現在、下松地方では、小寄講はわずかに来巻地域に存続しているにすぎないが、昭和初期までは各地に残っていたようで、近世では、現在も広島県山間部に多数見られるのと同じように、多くの講がこの地方にもあったのであろう。講では、僧を招いて読経、法話のあと食事をともにしながら日常生活上の取りきめや世間話をするのが普通の形態で、講は連帯意識を培うだけでなく、経済面でも労働面でも効力をもつものであった。したがって、講の強化、発展は、つねに共同生活を強いられていた当時の民衆にとって、その生活向上に不可欠で、このためさまざまな講が存在したのが近世村落の一般的な姿であった。その講の強化、発展に宗教信仰およびその儀礼が有効な作用をなしていたのであろう。