したがって、僧侶だけでなく、神官もまた共同体の維持、発展のうえで一役を担っていたのである。それを示すのが「申(もう)し」と呼ばれる行事である。『国語大辞典』によると、申しとは、方言で、「小さな祭」(広島県)、「部落の集会」(山口県)とあり、また、『注進案』には「申ト云ハ神へ物ヲ申ストイフコトカ、又モフデノ転語カ」(末武上村)と記している。要するに講が仏事を中心とするのに対し、神事を中心にした寄合いで、講と同様に相互扶助的な機能を果たした。山口県の東部では現在も存続しているところが少なくないが、西部ではほとんど知られていない。『注進案』、末武下村の項には
夏秋組々森申シトシテ社人申請、作物為祈祷作リ初穂持寄一飯之賄仕、執行相頼耕作之評定仕、存付有之候ヘハ互ニ申合四方植付日取等申談組中差閊無之様万端申合候事
とある。下松地域では現在もかなりの地域で申しを行っており、講よりも広い範囲で行われていたのではなかろうか。行事は、当屋に集まり、右の『注進案』に記されているように、神官を招いて祭事をつとめたあと、会食し、農事その他の申し合わせや情報の交換をする。現在は年一回開催のところが多いが、かつては二度ないし三度、多いところでは四度のこともあった。加入は、希望者のみの自由加入でも、また特定者のみの加入でもなく、資産や格式に関係なく地域内全戸が加入し、維持費も原則として一律徴集であった。たとえば、河内村吉原中組には一八三一年(天保二)から現在までの申しの記録を綴った帳面が現存し、同年の「一人前のつなぎ」代(たとえば天保十二年は二八文)が記されている(宝城興仁「百年以上つづく地神申しの記録」『下松地方史研究』)。また、世話人として本当(引受け)一人と脇当(補助役)数人がいるが、これも輪番制であって、一部有力者が特権的に権限を握っている宮座的なものとは異なっていた。この点に申しの新しさがあり、小百姓層の地位が向上してきた近世末期の社会的産物であることを示唆している。
申しは、現在の集会のような単なる申し合わせの会合とも異なり、農民にとっては、五穀豊穣を神に祈り、共同体の一員として、申し合わせ事項の厳守を神前で誓う神聖な式場であると同時に、日常の厳しい労働からも、地位、格式からも解放され、近隣同士が神の前に平等な立場で、飲食をともにしながら親睦を深め合う憩いの場でもあったのである。