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寺社への参詣ブーム

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 全国的に近世中期以降に顕著になった社会的現象の一つとして、有名寺社への参詣をあげることができる。なかでも西日本各地では、伊勢神宮、東西本願寺、四国八十八カ所、讃岐金比羅宮等への関心が強く、おびただしい人数の、それも裕福者に限らず一般庶民までが遠路はるばるこれらの寺社へ参詣、巡礼に出向くようになった。
 それは下松地方でも例外ではなく、たとえば末武上村浄蓮寺の過去帳には、一七六八年(明和五)四月十九日に死亡した開作忠左衛門父の法名につぎのように記している。
釈京円 開作忠左衛門父
 但、存生之内、京都参詣致度念願之所、一生之内望不叶故、法名ニ京ゑんを望申候、

真宗門徒として京都の本願寺へ参詣したいと念願しながらそれがかなえられなかったので、京への縁を願って法名に、縁を同音の円にかえて京円とつけることを生前から希望していたのであろう。
 また、この過去帳には四国巡礼中に死亡した者の記述もあり、本願寺詣りや四国巡礼が十八世紀中期にはすでに下松地方でも相当に一般化していたのが分かる。
 しかし、こうした有名寺社への参詣熱の高まりは、宗教的な信仰心の高揚からだけとは考えがたい。もちろんそれもあろうが、それ以上に、交通機関の発達、生活の向上、消費意欲の増大、情報の氾濫による都市への関心の高まり等、この時期固有の諸要因に促され、土地緊縛政策の中で閉塞情況にあった農民が、新鮮な空気を求めて寺社参詣に熱中するようになったという側面もあったといえよう。したがって、物見遊山的性格も相当強く、宗教と娯楽の一体化した現象であったとみることができる。
 では、それがなぜ寺社参詣というかたちをとったのであろうか。当時の社会においては、寺社には中世以来のアジール(宗教的神聖領域)的側面がなお存続し、寺社参詣を理由にすれば民衆は藩や幕府を気にしないで他出しやすかったからである(大石慎三郎他『民衆史入門』)。それに、近世には旅に出るとき、檀那寺から通行手形を受け、それを所持することが義務づけられていたが、寺社詣りであれば檀那寺から手形を受け取りやすかった。後述する切山歌舞伎の場合も、山本家の利右衛門という人物は、一八〇四年(文化元)、芸の修業に大坂難波へ出向くのに、檀那寺誓教寺住職と謀り、宗祖親鸞の旧蹟、神社、仏閣参拝ということにして出発したといわれているが(大木順治「切山歌舞伎とその由来」『下松地方史研究』第三輯)、このような寺社詣りという名目で檀那寺から通行手形を受けることが多かったようである。

往来手形(下松市大海町小本長命氏蔵)

 つぎに示すのは、四国霊場巡拝に当たって檀那寺周慶寺が発行したものである(小本長命氏蔵)。
   往来手形之事
松平大膳大夫様  周防国都濃郡末武村
一、御領分    大呑丁 木屋福次郎
 右之者代々浄土宗拙寺檀那ニ紛無御座候処、此度四国霊場巡拝罷出候間、御関所無相違御通し可被下候、若行暮候ハヽ一宿頼入候、万一於途中病死仕候節者其所御作法通身隠等被仰付可被下候、為其往来一札依而如件、
      周防国都濃郡下松
  弘化五(一八四八)戊申年三月   周慶寺判
 所之
 御関所
   御役人衆中

 旅に出ることが相当の冒険であったことが右の文面から察せられるが、それにもかかわらず寺社参詣がブームをよんだのは、よほどそれに対する強い欲求があったからであろう。物見遊山的要素も含んでいた当時の寺社参詣は、閉鎖的な世界に住む人々に広い視野を開かせ、さまざまな分野で地元へ新たな刺激をもたらすことが多かった。たとえば、幕末に普及した稲の新品種伊勢錦、あるいはその後に広まった神力はともに伊勢神宮への参詣者によって伊勢からもたらされたといわれている。ここには、娯楽と結びついた寺社参詣が、さらに農業生産とも関連していたことをうかがわせるが、これに限らず寺社参詣の土産物として持ち帰られた情報や産物が農村の活性化に直接、間接影響を与えることは、決して少なくなかった。