郷土芸能として県指定無形民俗文化財となっている切山歌舞伎は、こうした寺社参詣が機縁となって生まれたものの一つである。切山歌舞伎は宝暦年間(一七五一~六三年)、京参りに上った切山村下条の長重良が帰途、大坂竹本座の人形浄瑠璃や歌舞伎を観て感銘を受け、帰国後長男三四良を大坂に遣わして歌舞伎技能を学ばせたのが起源といわれている。また、切山歌舞伎中興の祖といわれる八五郎は、四国霊場巡拝のさいに伊予今治で歌舞伎を観て感激、帰国後再び今治に渡り、一年間その技芸を学んだという。
このように、遠隔地の寺社参詣のときに得た新知見が切山歌舞伎の誕生、発展の契機となったが、同時にこの歌舞伎は地元切山八幡宮との深い結びつきのうちに成長した。そもそも大坂の歌舞伎に感動した長重良が切山の地にそれを伝えようと思い立ったきっかけは、切山八幡宮の夏秋の祭日に歌舞伎を奉納すれば切山一円が五穀豊穣であるという神託を受けたことにある。このためその神意を体して八幡宮の大祭や御田頭幸祭りの折に上演したと伝えられ、当初は神への奉納が主目的であった。したがって、旱魃、悪疫流行、害虫発生の折などには神意を慰めるために小社に移動舞台を作り、上演して回っている(前掲「切山歌舞伎とその由来」)。その後、しだいに技を磨き、衣装をととのえ、芸能として人々に歓迎され、招きに応じて他村で上演することも多くなったが、もとは宗教と深く結びついた芸能だったのである。それが、時代が経つにつれ宗教色を弱めてくるが、しかし、江戸時代には上演するのはあくまで祭り日が主で、祭り(宗教)と一体化して発展をとげた。
このような宗教と芸能の結びつきは、現在もいくつかの下松地域の神社で行われている神舞(かんまい)においてもいえる。もちろん神舞は切山歌舞伎に比べてはるかに小規模であるが、祭りを盛りあげる主役であった。切山村の神舞について、『注進案』に「天明年中田作大虫枯之節、氏子中立願仕、六カ年壱度宛神舞執行仕来り候」とあり、十八世紀後期に虫除けの祈願として奉納したのがはじまりであった。
十八世紀中、後期は民衆勢力が著しく台頭し、村落共同体が大きく変貌をとげはじめる時代で、切山歌舞伎も神舞もこの変革期の産物で、ともに当初は宗教的要素の強いものであった。
ところが、この神舞の舞いの様子について『注進案』は「今ハ農民トモ神官ノ衣冠ヲ著シ、又ハ種々形ヲナシテ舞テ、神事トス、誠ニ古風ノコトニテ可笑ノ鄙ノ風俗ナリ」といい、『注進案』の時代には、神聖な奉納芸能がすでに宗教性を弱め、娯楽化していることをうかがわせる。それは、神に捧げる奉納芸能本来の姿からは一歩後退しているが、奉納芸能をより娯楽化することによって、村人は祭りをより身近かなものとして楽しむことができたのである。
このほか、『注進案』にあげられている盲僧による地神経読誦や盆踊り、念仏踊り、巡礼のご詠歌、真宗の節談説法等も宗教と分かちがたく結びついた一種の民間芸能といえよう。また、宗教的内容の有無と関係なく、近世の地方芸能は祭りとの結びつきが強かった。花岡八幡宮例祭巡幸の絵馬はそれを端的に示している。寛政期(一七八九年~一八〇〇年)の花岡八幡宮例祭における巡幸を描いたこの絵には、山車(だし)の上で歌舞伎と人形浄瑠璃を演じている場面が見られるが(第五章、1)、当時の歌舞伎、浄瑠璃は祭りの場においてはじめて興行が成り立ち得たのであろう。また、逆に祭りも娯楽性の強い歌舞伎、浄瑠璃の参加があってはじめて活気を呈し得たのであろうことがこの絵から理解できる。
祭りは、規模の大小に関係なく、このように宗教、芸能、娯楽の三者が一体化しているからこそ人々はこれに憩いの場を求めて喜んで参加したのであろう。祭り日は、単なる宗教行事の日としてだけでなく、厳しい労働に明け暮れる当時の人々にとって、心身のリフレッシュの日として必要だったのである。したがって、民衆生活の向上とともに祭りによる休日は増加していった。