一八三〇年(天保元)九月三日、徳山藩領東豊井村でほぼ全村民が参加する大きな一揆が発生した。この一揆の結果、後に述べるように東豊井村の村民のうち、一九九人が有罪となっている。とくに、主謀者と目される八名は、離島流罪の刑に処せられた。このように有罪者数が多く、しかも重罪者を多く出したこの一揆騒動は、東豊井村において空前絶後の騒動であった。
この東豊井村の一揆騒動は、これより一か月前に発生した隣村熊毛宰判浅江村の一揆に、触発された点がある。では、浅江村一揆とはどのようなものかを、まとめてみるとつぎのようになる。
一八三〇年七月二十九日、浅江村で一揆は発生する。一揆勢はおよそ三〇〇人(一書には八〇〇人)、手に竹杖や鎌を持って徳山まで押し出す。一揆農民の目的は萩まで押しかけ、歎願書を提出することであった。歎願書には、物産の専売制に反対することが書かれていたという。この強訴騒動は、徳山で徳山藩役人に阻止され、そこで歎願書を提出して鎮静化したという(『光市史』)。
この隣村浅江村の一揆は、東豊井村の村民に強い影響を与えた。なにせ東豊井村の道を、多くの農民が武装して通り過ぎたからである。これをみた東豊井村の村民は、「俺達も一揆に立ち上がろう」と思ったに違いない。そのためか一か月後、東豊井の農民は一揆に立ち上がるのであるが、しかし、一揆の形態は浅江村の場合とは異なっていた。浅江村農民は、専売制に反対して直接藩府に強訴を決行するが、東豊井村農民は宮洲屋塩田内にあった鰯干場の小屋を打ち毀したのである。
ではなぜ東豊井村の農民たちは浅江村の農民のように、はなばなしく武装して街道をかけ上り、大勢で強訴を決行するという方法をとらず、村の海岸にある鰯干場の小屋を打ち毀すという、一見姑息な手段に出たのであろうか。これは、村の最大の有力者である塩田地主の宮洲屋幸吉が、村民の恨みの対象となっていたからであろう。このことを明らかにしないと、東豊井村一揆の真相は分からない。そこで、宮洲屋幸吉が塩田地主として、成長して行く過程を概観してみよう。