(一) 宮ノ洲御立山の松を伐採し、畠地とすることを許可する。
(二) 開作のための無税期間は三か年間とする。
(三) 開作地東の松林は宮洲屋幸吉に預け、管理を一任する。
(二) 開作のための無税期間は三か年間とする。
(三) 開作地東の松林は宮洲屋幸吉に預け、管理を一任する。
右の通達で、宮洲屋幸吉は畠開作をすることが許されている。しかし、宮洲屋幸吉は松原を畠にするために願い出たのではなく、本当の目的は塩田を造成することにあった。そのことは、一八〇六年(文化三)に徳山藩の出した通達に、つぎのように述べられていることから判明する。
(一) 宮洲屋幸吉の塩田開発を許可する。
(二) 畠地から塩田にする期間は一〇年間とし、その間は無税とする。
(二) 畠地から塩田にする期間は一〇年間とし、その間は無税とする。
これでみると、宮洲屋幸吉はまず宮ノ洲の松林を畠地に開作し、三年あとにその畠を塩田にしたいと願い出ていることが分かる。なぜ最初から塩田開発を願い出なかったのであろうか。それはこの前年、すなわち一八〇五年に、徳山藩府から宮洲屋幸吉宛に、「畠七町六反四畝二十三歩」の畠租税を納入せよとの通知があったことから推察できる。このことは、宮洲屋幸吉が、徳山藩府の行政指導に従った結果であろう。
徳山藩府に、宮洲屋幸吉が当初から塩田開発で願書を出せば、藩府は一〇年間は開発期間として税を取ることはできない。しかし、当初畠開発として願書を出せば、開発期間の三か年が過ぎれば、四年目から税を徴収することができる。このため、藩府は藩収入の増徴策として、まず畠開作を許可し、その後に塩田開発願を出させたのであろう。このようにして、宮洲屋幸吉は宮ノ洲に七町六反という塩田を造成したのである。
下松干鰯場宮洲屋開作御沙汰控